*Ⅲ* 6/11


 チャイムが鳴った。


 ポーンと短く一回、続けて二回電子音がひびく。


「ん……」


 まぶたをこすり起き上がった。窓からあさが差しこんでいる。照明の光が弱々しい。カーテンが開けっ放しだったのか。床にはくつしたやズボンが散乱しひどい有様だった。ああくそ、寝ちまったのか。今何時だ? 八時半、まだ早いじゃないか。


 ポーン。


 再びチャイムがひびく。


 だれも出ない。そういえば昨日明華ミンホアが祖父母含めて外出すると言っていたな。ということは今この家に自分は一人きりか。


 おつくうな気分でベッドから立ち上がる。ったくこんな時間に誰だ。セールスや勧誘のたぐいなら承知しないぞ。毒づきながら階段を下りていくと、もう一度チャイムが鳴った。


「はーい!」


 しつこいな。


 大声を上げ玄関に。サンダルに乗って引き戸を開いた。


「どちらさ──ま」


 小柄な少女がのきしたに立っていた。ワンピースの上に大きめのミリタリージャケットを羽織っている。こつなブーツと細い足が対照的だ。しらうおのような人差し指を突き出したまま固まっている。


「グリ……ペン」


「おはよう、けい


「なんでここにいる」


「送ってもらった」


「誰に?」


ほんの人」


「ギホン」


「技術研究本部」


 しろどおりの所属部署か。あわててサンダルをはき直し道路に出る。左右を見渡すとちょうど黒塗りのセダンが交差点を曲がっていくところだった。


「どうしろっていうんだよ!」


 叫び声はむなしく大気中に拡散した。低いうなり声を一つ、玄関に戻る。グリペンは相変わらず無表情にこちらを見つめていた。


 半眼で見下ろしてたんそくする。


「慧、疲れてる?」


「理由は分かるか」


「さぁ」


「だよな、おまえはそうだよな」


 彼女に怒っても仕方ない。とりあえず何がどうなっているのかあくしたかった。


「で? おれの家まで来たわけは。どうして技本の人達はおまえを送ってきたんだ」


「……」


 それも分からないのか。ひどい脱力感におそわれているとグリペンは首をかしげた。


「ハルカからはけいの言うことをなんでも聞くように言われている」


「ハルカ?」


「室長、しろどおりはるか


 そんなわいらしい名前だったのか。外見とのギャップにまいがしそうだ。こめかみをおさえ。


「えーと……その、言うことを聞けっていうのは」


「好きなようにさせてやれって」


「は?」


「何されても抵抗するなって。としごろの男だから少々のことは仕方ないって言ってた」


「……!?」


 あ、あのぶた親父おやじは何を言ってやがるんだ!?


 じんを通り越してめつれつだった。人をからかうにもほどがある。「冗談じゃない、すぐ迎えに来てもらえ!」と叫びかけた時だった。


 視線を感じた。


 近所の住人が顔を出している。いずれも昼間の星を見たような表情で固まっていた。好奇に満ちた視線の先にあるのは。


 ──輝くようなペールピンクの髪。


 ……っ!


 グリペンの手を引き家に入る。いかん、いかん見られた。狭い町だからすぐうわさが広がる。明華ミンホアや祖父母に伝わったらどうなるか分かったものではなかった。


「入っていいの?」


 グリペンがたずねてくる。「ああ」とつぶやき廊下に上がった。しばらく人目を避けた方がいいだろう。明華が外出しているのは幸いだった。とりあえず宅内で時間をかせげる。


「お茶くらい出すよ。昨日はこっちがもてなしてもらったしな」


「手伝う」


「いいから、ゆっくりしてろ」


 居間に入れて座らせる。とんにちょんとちんしている様はほとんどしき童子わらしだ。冷蔵庫からペットボトルを取り出しコップにぐ。盆に載せて戻るとグリペンがかべの戸棚を見つめていた。


 何見てるんだ?


 のぞきこんで、はっと息をむ。棚のなかほどに写真立てが置かれていた。


 写りこんだ景色は飛行場だ。白塗りのセスナ172Rが駐機している。その前に大人おとなと子供が一人ずつ立っていた。二人ともかいきんシャツにズボンという軽装、手に飛行用のチェックリストとサングラスを持っている。


 大人おとなの女性はにかっと笑い、子供は照れくさげに視線をらしていた。女性の腕が子供の首に回されている。


「これ、けい?」


 グリペンの問いかけに「ああ」と答える。


となりの人は?」


「母親」


 久しぶりに出した単語はひどく乾いていた。


「二人で中国の空を飛んだ時の写真だよ。十歳くらいかな、父親を後部座席に乗せて家族三人で飛んだんだ。途中おれも少し操縦したんだぜ」


「慧が?」


 大きな目が丸くなる。


「飛んだの? 自分で空を?」


「こう見えても飛行時間だけなら百超えてるんだぜ。ま、もちろんインストラクターが橫についてだけど」


「すごい」


「すごいって……おまえはもっと自由に飛び回ってるだろう? 速度も高度もセスナなんて比較にならないくらい」


「ううん」


 グリペンの声が一気にしぼんだ。くちびるを結びうつむく。


「私は……飛べない」


「飛べないって」


「ハルカが言ってた通り、私はテストでも実戦でもきちんと飛べたことがない。途中で制御不能になって帰還させられている。戦力としては全然期待できない、がねらいの欠陥品」


「そこまで言うことないだろう」


「周りがそう言ってる」


「……」


 どう返してよいか分からず慧は話題を切り替えた。


「理由は分からないのか?」


 不安定の原因、機能そうしつの引き金。


 グリペンは首を振った。


「何度診断しても異状はないって。症状は確認できてもそこにつながる原因が見つからない。だから対策も不明。ただ──」


「ただ?」


「私は……何かが欠けてるように思う」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る