*Ⅰ* 1/5


 淡い果実のようなくちびるが迫ってくる。


 どうが高鳴り身体からだの奥底が熱くなった。血流が速度を増している。触れ合う指が、ほおにかかるペールピンクの髪が正常な思考を狂わせた。全身の感覚が倍になったように感じる。音も、においも、触感も、何もかもがたらふくれ上がり荒れ狂っていた。


 意識にもやがかかっている。


 本来ならあまりにも不自然な状況と思うべきだろう。一体目の前の少女はだれなのか、なぜこんなことになっているのか。いつたん押しとどめて理由をたずねるところだった。


 だが身体は迷いなく事態の推移を受け入れている。少女と身を寄せたままキスにのぞもうとしていた。


 腕をつかむ手に力がこもる。まだ唇も触れていないのに柔らかな感触が思い起こされた。吐息。甘い匂いがひときわ強くなる。両目を閉じ身を乗り出して、しゆんかん


 地面が失われた。重力が消失し頭から落下する。肩と背中に鈍いしようげきが走った。痛い、意識がかくせいし少女の姿がき消えた。


(夢?)


 ベッドから転げ落ちたままなるたにけいはつぶやく。古びた塗りかべにカレンダーがぶら下がっていた。年代物の学習机に、それから本棚。


 時計の針は午前十一時を示している。窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。


 ああ……そうか、まつの家にいるんだっけ。


 いしかわ県小松市、JR駅にほどちかい祖父母の家だった。避難から一週間近くたつがいまいち慣れていない。というより上海シヤンハイ脱出戦の記憶がきようれつすぎた。ザイしゆうらい直後の一方的なぎやくさつ、赤い戦闘機の逆襲とついらく、その後の中国軍機の増援とザイのてつ退たい。時間が過ぎているにもかかわらずまだ色々と思い出してしまう。


 キス……したんだよな。


 唇を触ってみる。冷静に考えるとたいがいありえなかった。中国領海で日本の戦闘機がちてきて、助けにいったらそこに女の子が乗っていて、自分とキスを。


 ……。


(気でも狂ったのかって話だよな)


 おかげで誰にも言えていない。あの飛行機も遅れて到着した自衛隊? の船に回収されてしまったしすべもうそうだと疑われても否定できなかった。


 ためいきを一回、タオルケットを押しのける。とりあえず着替えようとパジャマのズボンを下ろした時だった。


「ちょっと慧! いつまで寝てんの!」


 乱暴に扉が押し開けられた。


 ポニーテールの少女が目を怒らせている。片手にハンディワイパー、もう一方の手に洗濯かごをたずさえている。明華ミンホアだ。あわててズボンを引き上げる。


「お、起きてるよ。てか、ノックくらいしろ!」


「したよ! 三十分前と一時間前、それに二時間前にも。全然返事ないから今までっといてあげたの。いくらなんでもゆるみすぎじゃない? おさん足悪いんだから家事手伝ってあげないと」


 正論。ぐうの音も出ず沈黙していると、明華は「ていうかさ」とえんりよめ回してきた。


けいのパンツなんて小学生の時に何度も見てるし、いまさら恥ずかしがるようなことないでしょ」


「子供の時と今じゃ全然違うだろ! もし逆の立場ならおまえ平気なのか? おれが明華の着替えのぞいたら」


「怒る」


じんすぎるだろ!」


 悲痛な抗議をさらりと受け流し、彼女はメモ用紙を渡してきた。


「これ、買い物リスト。お昼ご飯で使うから全速力で行ってきて。ハーリアップ!」


 言葉を返す余裕もない。入ってきた時と同じようにもうれつな勢いで扉が閉まる。軽い足音が小走りに廊下を移動していった。洗濯かごを持っていたしベランダにでも向かうつもりなのか。


 ……なんでおまえが仕切ってるんだよ。


 一体だれの実家だと思っているのか。いやまぁ自分もぶっちゃけほとんど面識のない家だが。生まれてこの方父親の転勤で連れ回されていたためまつの祖父母とは数えるほどしか顔を合わせていない。今回のような非常事態がなければおそらくずっと接点のないままだっただろう。そもそも当の父親が現在進行形で世界中を飛び回っているため、自分も明華ミンホアそうろう気分で転がりこむしかなかった。いや事前に孫と知人がやつかいになるむねは連絡してくれたらしいが、にしても色々気兼ねするというのが正直なところだった。


 まぁおれはともかく、あいつは赤の他人だしな。


 えんりよして必要以上に張り切りたくなるのだろう。気持ちは理解できる。ただ何かにつけ小言っぽくなるのは彼女の欠点だ。「しっかりしてけい」「ほら、あたしがついてるから」「一緒に頑張ろう、ね?」ああ、ああ、ああ。


(悪いやつじゃないんだけどな)


 ソン明華、十六歳。出身はこうと聞いている。貿易商の父親が中華街で仕事していたころ、生まれた子供らしい。日本語がたんのうなため、中国到着後間もない慧と引き合わされた。どうも親同士が日本在住時の知り合いだったようだ。「この子をよろしくね」「守ってあげてね」というお願いを彼女は九年間りちに守り続けている。文化や言葉の違いに苦しむ自分を陰に日向ひなたに支え続けてくれた。今回の脱出行も彼女なしではうまくいかなかっただろう。保護者不在の自分を連れて、自らも親族とはぐれながら、必死で上海シヤンハイにたどりつき、そして。


(感謝はしてる、してるさ。ただ)


 思春期の男には色々と複雑なプライドもあるのだ。いつまでも同年代の女子に頼っていられなかった。


 ……とりあえず買い物行くか。


 吐息混じりにつぶやき立ち上がる。買い出しメモをベッドに置きパジャマの上を脱いだ。

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