*Ⅰ* 2/5


 小松の町は空が広い。


 年代物の木造建築に大気の青がよく映えている。初夏の風を真っ向から受けつつ慧は自転車を走らせた。国道360号を郊外方面に、水路わきの歩道を西進する。数分も行くと町並みが途切れ広大なでんが見えてきた。目指す商業施設はその手前だ。だだっ広い駐車場を囲むようにスーパーマーケットやドラッグストアがのきを連ねている。交差点を渡ったしゆんかん、背後から低い大気の振動が伝わってきた。


 上空をそうはつの飛行機が飛び去っていく。まばゆい陽光を背負いつつ海側に向かっていた。顔の前に手をかざし見上げる。シルエットを見る限り中型の旅客機か。確か町の西側に空港があるからそこより出発した機体だろう。


(こっちはまだ民間機が飛んでるんだ)


 新鮮なおどろきが胸にき上がってくる。


 中国本土の空はとうに死地と化していた。非武装の民間機はおろか軍の戦闘機でさえうかつに飛べばとされる有様だ。定期便の運航など望むべくもなかった。


 ましてやなど問題外か。


 ちよう気味に口元をゆがめる。


 初めて飛行機を操縦したのは七歳の時だ。当時の自分は慣れない異国暮らしに苦しみノイローゼ寸前になっていた。子供の世界はざんこくだ。ロクに英語も中国語マンダリンもできない日本人をインターナショナルスクールの生徒達は冷笑をもって迎えた。何かと言えば発音をからかわれ、要領の悪さを笑われ、あらゆる行事で孤立させられた。


 父親のにんさきじようじゆくという上海シヤンハイしゆうに比べれば小都市だったこともわざわいしたのだろう。現地の社会は決して外国人の子供を受け入れられるように整っていなかった。もちろん明華ミンホアは守ってくれたが、現地学校生の彼女にはおのずと限界がある。目の届かないところでいじめや悪戯いたずらは続き、未熟な自我は限界寸前まで痛めつけられていた。


『帰りたい』


 そう母親に訴えた。


『こんな国嫌いだ、日本に戻る』


 洗濯中の母親は振り返ると『うーん』と頭をいた。


『帰ってどうするのさ、日本にはパパもママもいないよ。パパは仕事辞められないし』


『ママとだけ一緒に帰る』


『そりゃだめだよ。ママ、パパもけいも大事だし。家族をバラバラにはできないなぁ』


 じゃあどうしろというのか、今のまま自分一人が苦しめばいいのか。ママは子供のことが大切ではないのか。感情的にわめき続けると母親はこちらに向き直った。しゃがみこんで目線を合わせる。


『分かった』


 あっけらかんとした口調。


『とりあえず一緒に飛ぼうか』


 まったく脈絡のない論理展開。元かいパイロットの母親はひどく感覚的なところがあった。おそらく「即効的な解決策はない」、「であれば気分転換しよう」、「普通の行き先じゃだめかも」、「じゃあ一緒に飛んでみる?」という思考回路だったのだろう。ただその時、詳しい説明は一切なかった。彼女はおもむろに外出準備を整えると郊外の飛行クラブに直行、セスナを借り受け中国の空に飛び立った。


 初めての小型飛行機はひどく恐ろしいしろものだった。国際線の旅客機とはまったく違う。狭くて暗くてものすごくうるさかった。かべや床からすさまじい振動が伝わってくる。このまま空中分解するのではとおびえていると、あろうことか母親は操縦かんを預けてきた。


『ユー・ハブ・コントロール!』


 卒倒するかと思った。母親は両手を浮かせにやついている。仕方なく操縦桿に飛びついた。とはいえ右にも左にも動かせない。必死でしがみつきへいこうを保った。


『そう簡単にちやしないから、ほら、ちょっと上に上がってみな』


『無理!』


『いけるいける、大丈夫だって』


 右手を重ねられぐっと引っ張られる。鈍いGが身体からだおそった。世界が傾く。怖い。半狂乱で泣きわめいていると、ふっと光が差しこんできた。


 雲を抜けたのだ。そう気づくまでにわずかな時間を要した。ぼうようたる地平と空が広がっている。さえぎるもの一つない景色、非日常の光景が窓の外にあった。


 機体はゆるい角度で上昇している。陽光が風防の水滴に当たりハレーションを生み出した。


『次、左』


 母親のてのひらに力がこもる。いつたん操縦かんを左回転させた後、手前に引いた。動く。意図した通りに機体が持ち上がり針路を変えた。


(うわっ……)


 経験したことのないこうようき上がってくる。上下左右、360度、どこにでも行ける開放感。眼下の景色をすべて従えたような全能感。


 スロットル調整、右ヨー、左ヨー。わずかに降下、もう一度機首上げ。バンク。


 多分母親が適度にサポートしてくれたからだろう。風のえいきようも受けず飛行機は軽快に飛び続けた。楽しい、気づけば胸の奥のもやもやはれいさっぱりぬぐい去られていた。


『シルクロードの空に天国があるんだってさ』


 しばらくして何の前触れもなく母親が言った。コントロールを取り戻しリラックスした姿勢となっている。


『天国?』


『そう聞いただけで実際どういうものかは分からないんだけどねー、一度見てみたいなぁ、中国の奥地までビューンと飛んでって』


『この飛行機じゃ無理?』


『燃料もたないし』


 無念そうに肩をすくめて母親は視線を向けてきた。


けいが大きくなって免許取ったら一緒に見に行こうか。あっちの方に飛行クラブあるか分からないけど』


 そのあとなんと答えたか、実はよく覚えていない。


 ただ翌日以降『日本に帰りたい』とは言わなくなった気がする。代わりに簡単な飛行機の本を買ってもらった。タイトルは「ひこうきのしくみ」だったか、ひまさえあればページをめくり、すり切れるほど読んだ。高学年になるとそれが「飛行機操縦の基本」になりしよちゆうせいで「中国自家用操縦士・学科試験問題集」に代わった。中国でのライセンス取得は十七歳から可能となっている。もうあと一歩、いつも通りの日常が続けばこの時のやりとりを現実にできたかもしれない。


 だが未来はとうとつに断ち切られた。二年前、二〇一五年六月、中国奥地からザイの侵攻が始まり母親の飛行機をげきついした。大陸の空はガラス細工のつばさで埋め尽くされ操縦士資格の取得など見果てぬ夢となった。


(この空も)


 もう一度空を見上げる。降り注ぐ陽光に片目をすがめた。


 いつかは戦場になるのだろうか。海を越えてやつらが押し寄せれんの炎に染め上げられるのだろうか。


 ありえない話ではなかった。事実たいわんちようせん半島はすでに戦火におおわれている。ザイの侵攻が日本海で止まる可能性は限りなく低かった。


 ──だけど。


 身体からだの奥底で脈打つものがある。目を閉じれば思い出せる。そうきゆうつらぬいたしんの翼、やじりを思わせる特徴的なシルエット。


 あんな飛行機がたくさんあるなら人類はまた戦えるかもしれない。中国の大地を取り戻せるかもしれない。そうすればシルクロードの空だって自由に飛べるはずだ。


 正直、中国脱出の時まで自分はあきらめていた。どうせ人間はザイに勝てない。希望など持つだけなのだと。天災におそわれた避難民と同じ、圧倒的なもうを前にぎやくしゆうの可能性など考えてもみなかった。


 だが違う。奴らは超常の存在ではない。弾が当たれば砕け散り翼を失えば墜落する、人類の飛行機と同じ物理法則の産物だ。我々が進歩を続けていけばいつか必ず圧倒できる、地上から根絶できる。そのことがはっきりと理解された。あの赤い飛行機のおかげで。


 どうが高鳴る。


 果たしていつ反撃の狼煙のろしが上がるのだろう。来年? それとも来月か。くれないの翼が編隊を組み中国本土に向かっていく。逃げ惑うザイをたたき落としていく。なんとも胸躍る光景だ。テレビで放送されるのだろうか。それともネットニュースで中継されるのか。らちもない想像を巡らしていると不意に電光のようなひらめきが走った。


(そうだ)


 何も他人任せにする必要なんてない。武器さえあれば自分も戦える。ザイにたいできるのだ。おのれの手で二年越しのふくしゆうを成しとげる。人類のはんを取り戻す。考えてもみなかった可能性が目の前に広がった。


 夢物語?


 いいや十分に実現性のある話だ。ここは日本で自分は日本人、そしてあの戦闘機は日本の軍隊の装備だ。意志と能力さえあればきっとチャンスは与えられるはずだった。


(調べてみるか)


 ちよう近くに大型の本屋があったはずだ。買い物後に寄っても大したロスにはなるまい。


 後ろ足で地面をる。気のせいか身体からだが軽くなったように感じられた。

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