*Ⅴ* 1/9


 第七艦隊がやられたらしい。いつのころからかそんなうわさがネットで流れ始めた。いわく、空母の沈没映像が動画サイトに流出した。曰く、傷だらけの残存かんていに入港してきた。曰く、げきついされた艦載機の破片が海岸に漂着した──などなど。


 多くの情報ソースはまがうことなきにせもので、残りも出所不明の怪しげなものばかりだった。だが事実として母港よこに帰る艦艇はなく中国との連絡も途絶し続けている。ニュースは艦隊出撃の続報を流すこともなく不自然な沈黙を保っていた。


 多分事実なのだろう。


 全滅ではないにせよじんだいな被害を受けた。組織的な戦闘能力を失った。おそらく中国軍も無事ではすまなかったのだろう。最後の防衛線が突破され日本海への回廊が開いた。その結果が先日のザイ飛来というわけだ。


 つまり……まつはもう前線ってことか。


 自室の回転にもたれかかりけいは独りごちる。


 以前グリペンが言っていた。「大陸沿岸が全部ザイの手に落ちたら小松が最前線になる」と。思ったより早くその時が来たということだ。


 窓の外でトラックの排気音がひびく。朝方の路地を引っ越し業者の車が進んでいた。最近転出する世帯をよく見かける。表に出ている情報はどうあれおんな空気が徐々に町をおおいつつあった。


 ためいきを一つ、視線を転じるとデスクわきに青のげ袋が見えた。グリペンからのプレゼントだ。結局あの日、テストフライトの時から置きっぱなしになっている。五日前、彼女に戦力外通告が下された時から、ずっと。


 何度か基地には行ってみた。最後にしろどおりと会った時「もう一度上層部に働きかけてみる」「再テストの実施を依頼する」と言われたからだ。だが連日の訪問にもかかわらずグリペン・八代通との面会はかなっていない。先週までの開放感がうそのように小松基地の門は固く閉ざされていた。


 終わった……ということか。


 ほんの悪あがきも自分の奇妙なバイトも空への夢も、何もかも。


 ゆうちような研究の時間は過ぎ去り本物の戦争が始まる。前線となった小松で戦うのはやじりのごときくれないつばさではなく、黄金のわしだと。


 ……。


 大きく息を吐いて立ち上がる。家の中にいるとどんどん気分が内向きになってくる。買い物でも兼ねて外に出るか。このところバイトだ体調不良だと全然家事を手伝えていなかったし。


 時計を確認。午前十時半、もう店は開いている時刻だ。携帯端末と家のかぎをポケットにねじこみ部屋から出る。暗く急な階段を下りて一階廊下にたどりついた。台所からテレビと流水の音が響いてくる。だれか洗いものでもしているのか。室内をのぞきこむと流し台前にポニーテールの頭が見えた。ジャージの上にエプロン、明華ミンホアだ。ちよういい、何を買ってきたらいいかいてみよう。見たところ祖父母も不在のようだし。


「おい明華。おれ、ちょっと出かけてこようと思うんだけど」


 ……返事がない。


 聞こえていないのだろうか、少し声のボリュームを上げてみる。


「おーい、明華」


 だが相変わらず反応はなかった。よく見ると彼女はじやぐちを開いたまま身動き一つしていない。心持ちあごをもたげぼうっとしていた。


 たんそくを一回、彼女の後ろに歩み寄る。指を小刻みに動かすと、おもむろにわきをくすぐってみた。


「ぎゃっ!」


 猫が尾を踏まれたような悲鳴。ポニーテールがね上がり肩がすぼまる。彼女は引きつり顔で振り返ってきた。「な、なに?」と目をしばたたく。


「水、出しっ放し」


 蛇口を指さすと彼女はあわてた様子で水を止めた。時間の感覚が飛んでいたのか、やや混乱した表情となっている。


「ご、ごめん。考え事してて。……でもなんでいきなり? 普通に声かけてくれればいいのに」


「ちゃんと声かけたよ。明華が気づかなかっただけだろ」


「そ、そうなんだ」


 本当に気もそぞろだったらしい。理由はだいたい分かる。第七艦隊敗走のうわさだろう。中国との航路回復は彼女の中でずいぶん大きな希望だったはずだ。その望みが断たれて以来、あからさまに元気がなくなっていた。


 しようぜんとする彼女に鼻を鳴らしてみせる。意識して底意地の悪い口調で。


「にしてもおまえ、相変わらず脇が弱いよな。昔っからちょっと触られただけで『ぎゃー!』って大げさに。今だって大して強くくすぐってないだろ」


「だ、だれにだって弱点の一つや二つあるもん! それにさっきは急にやられたからびっくりしただけで。普段ならもっと平気だから」


「じゃあもう一度くすぐっていいか?」


「だめ! 絶対だめ!」


 血相を変えて後じさる。本気で苦手らしい。「分かった分かった」と両手を上げる。


「もうしない、しないから」


「本当? 絶対?」


「ああ、約束する」


「なら」


「あ、あと謝っておくとさっき少し胸触っちゃったから、悪い」


「……!?」


 両目をく様子が意外にわいらしい。やはり明華ミンホアは怒っているくらいがちようよかった。


「で、さ、ちょっと話を戻すと」


 本題に入りかけてふっと思いつく。息抜きが必要なのは彼女も同じではないだろうか。自分と同様、気分転換した方がよいのでは。うん、だよな、やっぱり。


「明華」


「な、なに?」


 緊張した様子で胸を隠される。固まる彼女に目線を合わせ、けいは真剣な口調で告げた。


「付き合ってくれないか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る