*Ⅰ* 5/5


「さ、帰ろう。話は家に戻ってゆっくり聞かせてもらうから」


「ちょ、ちょっと待てよ」


「早く」


 体勢を崩しかけ、危ういところで踏みとどまった。


「いい加減にしろ!」


 思わず怒鳴ってしまった。彼女の手を払いにらみつける。


「なんなんだよ一体、いくらうちの親に頼まれたからってそこまで意固地になる話か? しよせん子供のころの約束だろ。親達もそれほど深刻に考えていなかったはずだ」


「約束とか、そんなの関係ない!」


 予想外の答えが返ってきた。


 彼女の目はうるんでいた。ほおを紅潮させて歯ぎしりする。


「あたし、今この国でけいしか知り合いいないんだよ? 友達も家族もみんなはぐれちゃって、だれ一人生きてるかどうか分からない。なのに残った慧まで軍隊行くとか言い出して……それを心配しちゃだめ? うつとうしい保護者づらだっていうの?」


 あ……。


 頭をなぐられたように感じた。


 考えてみれば当然の話だ。十六歳の少女がただ一人、故郷も生活環境も破壊され異国に投げ出された。不安でたまらないだろう。家族の身を案じナーバスにもなっているはずだ。なのにそんなことおくびにも出さずじように振る舞っていた。なぜ? 簡単だ。自分が橫にいたから。九年来の弟分の前で弱音など吐けなかったから。


明華ミンホア


 どうしてよいか分からず立ち尽くす。まさか泣かせてしまうとは思わなかった。迷った末、振り払った手をもう一度取ろうとする。その時。


「おい! そこで何してるんだ!」


 マグライトの光が真正面から浴びせられる。明華が悲鳴を上げ飛びついてきた。


 声の主はフェンスの内側にいた。迷彩服の男性だ。後ろに大型の装輪車がまっている。巡回中の警備員か。無線と長身の銃を肩から下げている。


「あ、いや……えっと」


 しどろもどろになっていると男性はまゆをひそめた。


「なんだ子供か。いちゃつくなら別のところにしろ」


「え」


 せつ、自分達がどう見えているか気づく。若い男女が二人、ひとのないところで話しこんでいる。間の悪いことに明華の腕は慧にしっかりとからみついていた。肩と肩が触れ合いともすれば顔まで当たりそうだ。


 かっと頬が熱くなる。いや、違う、これは違うんです。


 だが否定する間もなく男性は手を振った。


「早く帰れ。でないと警察に言って補導してもらうぞ」


 面倒そうに告げて車に戻る。マグライトの光をもう一度こちらに向けた。


「ほら、行った行った!」


「あ、はい!」


 はじかれたようにフェンスから離れた。ほどなくして車のエンジン音が遠ざかっていく。夜の静寂しじまが再び周囲を満たした。


 えー……っと。


 どちらからともなく顔を見合わせた。


 顔が近い。相手のどうが、体温が感じられる。


「な、なんかかんちがいされたな」


「そ、そうだね」


「悪い、おれなんかとその……変な関係に見られて」


「け、けいこそいやだったよね。あたしなんかとそういう風に扱われて」


「いや、明華ミンホアこそ」


「慧の方が」


 ……。


「とりあえず帰るか」


 気まずさをすように提案する。明華も「あ、うん」と答えて身体からだを離した。お互い続く言葉が出てこない。直前の話題も悪かったのだろう。普段の明華ならば「は? あたしと慧が? 鹿じゃん」くらい言いそうだった。が、今はただ戸惑い気味に視線を落としている。


 無言のまま自転車に戻りスタンドをり上げた。月明かりの下、浮かび上がる彼女はいつもよりはかなげに見える。つややかな黒髪、細いうなじ、目の下のぷっくりとしたなみだぶくろ


 れいになった、と思う。昔の彼女はショートカットでほとんど男の子と見分けがつかなかった。いや、変わったのは外見だけではないだろう。弱音を吐いたり涙を見せたり九年前の明華なら絶対出さなかった態度だ。


(女の子、なんだよな)


 いまさらながらの事実にどぎまぎする。調子が狂う。これからどう接してよいか分からなくなりそうだった。


「あ、あのさ明華」


 なんとか元の調子を取り戻そうと呼びかけた時だった。




 目の前に黒一色のバンが飛びこんできた。




 は!?


 激しいブレーキ音を立ててバンがまる。進路をふさがれた。後輪をすべらせ慧達の前に横づけする形だ。ぎょっとなって振り向くと背後にもバンが現れていた。


「な、何!?」


 明華ミンホアの叫びはこちらの思いを代弁していた。だが答えの代わりにもたらされたのは扉の開放音だった。続いて車内から黒ずくめの男達が飛び出してくる。


「……!」


 悲鳴を上げる間もない。両腕をおさえられさるぐつわをかまされる。ほとんどき上げられるようにしてバンに放りこまれた。扉が閉まる。光が途絶え、だめ押しのように目隠しをされた。


 車が動き出す。現れた時と同じようにもうれつなスピードで加速し始めた。


 振動が身体からだの下から伝わってくる。わけが分からない。一体何が起きたのか、この連中はだれなのか、まったくと言っていいほど理解できなかった。


 ただ一つだけはっきりしていることがある。


 自分達はされたのだ。

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