第52話 血河を超えた先

果てしない青空だった。

荒野でのんびり草を食むのは無数の畜獣。ふわふわの毛に身を包んだ彼らはこの世界独自の品種の羊である。

その番をしている羊飼いの女の子は、空を見上げた。

―――いい天気だなあ。でも、寒くなってきたなあ。

そろそろ冬支度をしなければならない。彼女ら遊牧民は、春の家。夏の家。そして冬の家の三つの家を使い分ける。時期によって移動するのだった。今は山を下りて冬の家で暮らしている。何十世代にもわたって受け継がれてきた洞穴住居。岩を掘り抜いて作った暖かい空間に絨毯を敷いて暮らすのだ。家畜用の洞穴もある。四百人ばかりが集まって暮らす村落である。共用の窯―――やはり岩を掘り抜いた穴―――でパンを焼いたりもする。交易で手に入れた小麦で作った、硬い固い焼き締められたパンを。それらは女の仕事である。だが、今の女の子は男の仕事もやっていた。村から男手がなくなっていたから。

―――みんな、早く帰ってこないかなあ。

等と思っていたら、地平線のかなたに何やら揺らめく影が。

目を凝らす。まだ遠すぎて見えない。じーっと見つめる。それこそ穴が空くほど。

随分と長い時間をかけて見続けた結果、ようやくそれが何なのか分かった。人だ。何人もの人間が、こちらに歩いてくるのだ。

さらにしばらくして、やがてそれらの判別がつくようになってきた。村の人だ。戦争で兵隊に行っていた、村の男たちが何人もこちらに歩いてくるのだ。

その中には、女の子の家族もいるではないか。

彼女は、駆けだした。家族を迎えるために。

女の子にとっての戦争は、こうして終わったのである。


  ◇


世界は、激変した。

国連。すなわち国際連合とは前世紀に設立された国際機関である。その主たる機能は国際平和と安全保障。経済・社会・文化等に関する国際協力の実現であった。その設立の経緯から第二次世界大戦の戦勝国色が強いものの、現在存在する国際機関の中では最も普遍的・広範な組織であると言えよう。

その存在意義が根本から見直しを迫られたのは2年前。科学的に立証されている限りの人類史上で初めて、世界間戦争が勃発したのである。東京の地に開いたゲートから、異世界の軍勢が突如としてなだれ込んできたのだ。地球人類は、自らが孤独ではないことをこの時初めて知ったのだった。異なる物理法則に支配された、異文明の存在についても。

問題の戦争自体は1日で終結した(実際は開戦に至るまでの長い物語があった)が、それは始まりにすぎなかった。地球は揺れた。宗教。思想。科学。政治。経済。軍事。ありとあらゆる分野において混乱が広がり、それは今に至るまでとどまるところを知らない。何しろ問題の異世界には魔法が。そして精霊が実在していたのだ。どころか、地球においても神々や悪魔、妖精。妖怪。おとぎ話や神話、あるいは観念上の存在と思われていた者たちの実在が確認されたのである。これで混乱するなと言う方が無理であった。更には、地球において魔法使いが存在していたことも明らかとなった。日本国政府は公式に、魔法使い集団―――鬼神衆の名を持つ―――を秘匿してきたことを認めたのである。埃をかぶっていた古文書や伝承が注目を集め、各国政府は現存するかもしれない魔法使いを探し始めた。それは大抵の場合多大な徒労で終わったが。雲霞の如く湧いて出る、自称魔法使い、カルト、偽超能力者の数々に翻弄されたのである。しかし幾つかの事例では一定の成功をおさめ、今まで隠れ潜んでいた魔法使いたちが歴史の表舞台へと姿を現した。最初は南米の奥地から。中国の寺院では文化大革命でも命脈を断たれなかった方術士の一家が姿を現したし、カルカソンヌでは魔女の末裔がひっそりと古道具屋を営んでいた。ニューヨークでは証券取引所で働いている男性が勇気ある告白をしたし、ネイティブアメリカンの伝統的な呪術師が実際に力ある術者だったこともあった。アフリカで原始生活を送っている部族にもいた。地球全土で212人。これが西暦2020年現在確認されている、地球生まれの魔法使いの総数である。実際にはそれ以上の数がいまだ存在していると思われるが、その多くは何らかの事情―――迫害を恐れたり、今までの生活を守りたかったり、調査の手が及ばぬ秘境に住んでいたり、あるいは単に自身が魔法使いであると知らなかったりといった―――のためにまだその姿を現してはいない。本物かどうか判別する手法についても洗練されているとは言い難い。また、名乗り出た魔法使いたちの一部は、宗教界や各国が行った歴史上の様々な魔法使いに対する迫害について謝罪を要求しており、混迷の度合いはますます増していきそうだった。

そして、新しく増えた仲間についても考える必要があった。世界間戦争勃発の理由は侵略である。国連は、いや現在の国際社会は武力による他国の領土の占有を認めていない(状況によっては有名無実化するが)。戦争当事者である3国のうちのひとつ、現地名の直訳では"図書館の国"と呼称される国家は、日本国。そして国際連合に助けを求めた。実のところ政府機関と呼べるものは既に機能を喪失していたのだが、王位継承権を持つ第四王女が地球人類に対して援助を求めたのである。彼女が見返りとして提示したのは世界間移動を可能とする魔法の不拡散に努める事とそして、今後同種の事態が起きた場合の魔法的な援助だった。一国の首都に突如として敵国の軍隊(それも十分に機械化された!)が出現する、と言うのは地球上どの国家も想定していなかった悪夢である。熱核兵器以上の脅威と言っても過言ではない。国連は要求を飲んだ。第四王女は地球の軍事力を背景として、他国よりの干渉を排して敵国。すなわち魔法王アルフラガヌスによって治められた"精霊の国"との終戦交渉を成し遂げたのである。驚異的な外交手腕と言えよう。日本国としても渡りに船だった。何しろ異世界の外交儀礼など分かりようはずもない。地球にて、戦争犯罪人として軟禁されることが決定したアルフラガヌスは第一子へと譲位。占領された国土は速やかに返還され、そして"図書館の国"と日本国に対する賠償金が支払われることとなった。この時懸念されたのは地球と異世界側との経済規模の差だった(物理法則の関係で地球の経済力の方が遥かに巨大だった)が、気象や地震等を魔法で制御できる事が判明すると話の風向きは変わった。日本は地球でも有数の災害大国である。その被害を軽減することは年間何兆円で効かない経済効果となるだろう。今後50年間、日本国の大規模災害を防ぐ義務が"精霊の国"に課せられた。

これらの出来事で、たちまちのうちに2年間が経過したのである。当初の興奮がようやく醒めてきたころ、再建が進む"図書館の国"より地球の各国へと書簡が送られた。

新女王ヒルデガルドの戴冠式への、招待状だった。


  ◇


景勝地であった。

窓の外から見えるのは豊かな湖水。流れ込んでくるのは穏やかながらも涼しげな大気であり、快適に過ごすことができた。

もっとも、いかに快適であろうともここが監禁場所である。という事実には変わりない。家屋全体に魔法封じの結界が張られているし、ロボットやカメラによる監視も厳重だ。警備にあたっているのは石像鬼ガーゴイルなどの魔法生物や、多数の魔法使いと武装警官、自衛隊員である。アリの這い出る隙間もない。

地球の衣―――スーツを身に着けたアリヤーバタは、窓際でくつろぎ、山猫を撫でている男に対して臣下の礼を取った。

「構わぬ。楽にせよ」

「はっ」

ソファに座る男こそ、魔法王アルフラガヌス。いや。退位した現在、彼は先王と呼ばれるべき存在だ。落ち着いた柄のシャツとズボンを身に着けベストを羽織ったその姿からは、かつて地球侵略をもくろんだ偉大なる軍事指導者の面影は見いだせない。

「皆、息災か」

「はっ。万事滞りなく」

「うむ」

東京での戦い。あそこで生き残った者はわずかだった。数名の騎士とアルフラガヌス。そして、門にたどり着くことなく現地の警察に逮捕されたアリヤーバタ。

地球で治療を受けたアリヤーバタは、アルフラガヌスの側近であったことから交渉の使者として解放された。残された軍勢は十分な戦力を残していたが、しかし何ができるわけでもなかった。そもそもが、アルフラガヌスのカリスマによって統率できていた集団である。指導者が失われればそれは烏合の衆と言ってよかった。もちろん、そんな状態で世界一つを相手取ることなどできはしない。残された手立ては降伏である。

アリヤーバタは尽力したが、とうとうアルフラガヌスを自由の身にすることは叶わなかった。こうして軟禁場所にて、監視の下面会が許されるのみである。

この忠実なる呪術師は、持参したジェラルミンケースを差し出した。もちろん厳重なチェックを受けた後のものである。

中から出てきたのは、英文の書類の写しや古ぼけた写真、などなど。

うちのひとつ。若い女性の姿が写った写真を、アルフラガヌスは懐かしそうに手に取った。

「苦労をかけた」

「いえ。この程度、苦労の内に入りませぬ」

写真に写っている女性こそ、王母カロライン・ハーシェルであった。異世界で、それもわずかな手掛かりからその足跡を辿るのは容易な事ではなかったが、しかしアリヤーバタはやり遂げたのである。

彼にできるのは、もはやこれくらいだったから。

ケースの中身に一通り目を通したアルフラガヌスは、ふと臣下に問いかけた。

「今日だったか」

「ヒルデガルド王女の戴冠式、ですな」

アルフラガヌスは頷いた。

あの偉大な敵手は今日、女王の座に就く。驚くべき才気と政治手腕を持った傑物だった。結局のところ、自分たちの敗北はあの女ひとりによってもたらされたようなものだ。いや、ふたりか。

「ふたつの世界は変わっていくであろう。もはやその流れは止められぬ。その最初の一歩を踏み出し、歴史に名を刻んだことで良しとしよう」

「御意」

男たちは、窓の向こう。どこまでも続く湖水と青空に目をやった。ふたつの世界は繋がったのだ。その先には無限の混乱と拡大、発展が続いていくに違いない。

彼らは、いつまでもその光景を見続けていた。


  ◇


門を抜けた先は異世界だった。

上野――王都間を繋ぐゲート。双方の政府関係者しか利用を許されないこの門は、ほかに幾つかの世界間ゲートが設置された今も最も重要なものとして扱われている。

そこを通ることを許された数少ない民間人である涼子わたしの目に入ってきたのは、見慣れた田園風景と石造りの市街地。そして、巨大な火山を背にした王城であった。

しかしアルフラガヌスめ。よりにもよってこんな場所に門を開かなくてもよいだろうに。景色が台無しだ。

振り返り、門を見上げたわたしは苦笑。最初門は外側を覆う案もあったらしいが、結局のところ外部に露出されている。目を向ければ向こう側の世界の様子が見えるのだった。近代的なビル群と、古風なこちらの世界ではミスマッチも甚だしい。今ではどちらの世界の市民も慣れたものである。

ちなみに門は裏側から入ると、向こう側でも反対側から出ることになる。空間の連なりがどうなっているかの物理学的説明はまだうまくいっていない。魔法は地球の物理法則を幾つも破るものだから仕方がないとはいえ。

門の前の広場から進む。設けられた関を抜けた先では、懐かしい顔が待っていた。

「ようこそいらっしゃいました。涼子様」

「久しぶり、イーディア。それにセラも」

「はい」

あの戦いの後。わたしとヒルダは元の肉体に戻り、それぞれの立場で出来るだけのことをした。ヒルダは王女として。わたしは、地球で最も異世界について詳しい人間として。

最初に問題になったのは言語だった。わたし自身通訳に駆り出されたし、また政府に協力して可能な限りの通訳用の資料を作成したのである。教師の真似事もした。風俗。習慣。ふたつの世界のインフラの違いについて。教えねばならないことは無数にあった。ちょっとした魔法が使えなければこちらでは日常生活を送るのも困難だし、逆にこちらの人間が地球に来てもトイレの使い方ひとつ分からないと言えばどれくらい厄介な状況かはわかるだろう。

大変だったが、状況が落ち着いてみればそれもよい思い出だ。

わたしたちは談笑しながら、待っていた馬車に乗り込んだ。御者はセラ。繋がれた馬は碧の炎に包まれた蹄を持っている。魔法で召喚された霊獣であった。

周囲に護衛の衛兵たちが配置につき、馬車は出発。揺られながら、のんびりとわたしたちは王城を目指す。

「こっちもだいぶ、落ち着いてきたねえ」

「ええ」

火山を見上げれば分かった。奪還した直後の王都は、空が噴煙に覆われて昼でも暗い状態が続いていたのである。火山の主が機嫌を悪くしていたからだった。度重なる祭祀によってその状態はようやくもとに戻りつつある。

国内の復興も進んでいるそうだ。国民の生活はようやく戦前の水準に戻り、壊滅した複数の騎士団は再建されつつある。イーディアも若年ながら去年、父の所領と流水騎士団団長の地位を正式に受け継いだ。

彼女ならば、きっとうまくやってくれるだろう。

「地球ではどうお過ごしですか?」

「うーん。そうだねえ。こっちも混乱はようやく収まってきた、かな。おかげでわたしは無事に進学できた。1年遅れだけどね」

入院していた期間があるから、留年するはめになった。まあ仕方がない。その間に色々と働いていたわけだし。

「ま、これからもハイパティアの足跡について調べていくつもり」

混乱でいろいろと後回しにされていたが、ハイパティア。そして二つの世界の行き来に関する事物の調査はようやく開始されつつある。様々な事柄が解明されるだろう。ふたつの世界の交通が過去にはもっと容易だったという証言もある。世界間を移動する魔法が1600年も前に開発出来た理由もそのあたりにあるのかもしれない。

まあ、のんびりとやっていこう。わたしにはもう、人並みの寿命があるのだから。

こんなふうに会話を続けているうちに、セラが声をかけてきた。

「まもなく王城です。お準備を」

馬車は、巨大な城門を潜った。


  ◇


【"図書館の国"王城】


小さな控室だった。

その主役であるところの人物。すなわち、本日晴れて王位に就くことになるヒルダわたしは落ち着いていた。今日という日が来ることを想像していなかった。と言えば嘘になる。しかし、自分としては地球とハイパティアについての学術的調査に一生を捧げる、と半ば決めていたのに、蓋を開けてみれば自分が王位継承権者の中で最も順位が高いという現状がある。兄や姉たちよ。何も死んでしまわなくてもよいではないか。わたしが面倒な仕事を全部やる羽目になってしまった。

わたしは、玉座を押し付けてきた張本人に顔を向けた。

「嬉しそうですね、叔父上」

「ああ。一時はどうなることかと思ったが、よくぞここまでやってくれたものだ。叔父として誇らしい」

椅子に座る叔父上、王弟ハイヤーンは上機嫌だ。彼の助けがなければ、わたしも終戦交渉や国連とのやりとりをうまくやり遂げられたかどうかは自信がない。叔父上や多くの人々が戦いを生き延びていてくれたおかげで、国を再建することが出来た。人材は宝だという事実を実感する。

「そなたは、我が国中興の祖として、初代様と並び讃えられるであろう」

「買いかぶり過ぎです、叔父上」

「謙遜もやり過ぎはよくないぞ?

さて。では私はこのあたりでお暇しよう」

地獄谷で右腕と左足を失った叔父上は、杖と付き添いの木人形の助けを得て立ち上がった。部屋の隅に待機していた礼服の男―――ネズミと言う名の密偵―――が開いた扉を抜けて退室していく。

最後に礼服の男が一礼し、そして扉は閉まった。

続いて扉がノックされる。通されたのは、知った顔だった。

「おお。来てくれたか」

「もちろんだ」

ドレス姿なのは遥香。更には晴れ着を身に着けた恵がぺこり。と一礼する。

「高校を卒業すると、こういう時に不便だな。制服で来られない」

「はは。そなたらしい言い草だ」

遥香の言にわたしも苦笑。学校の制服は礼服でもあるから確かにその方が楽だろう。彼女は身を飾るタイプではないからなおさらだ。

この2年で遥香も随分と環境に変化があったはずだ。例の物理法則と人間原理に関する仮説を論文にまとめたのは主に彼女である。わたしや涼子は忙しくて着手する暇がなかった(可能なら自分で書きたかった!)し、銃で撃たれた恵もしばらく入院していたのである(魔法使いである彼女が科学で治療出来た事実も論文執筆に役立った)。最初まとめられた仮説は日本政府や科学界の重鎮たちに貴重な資料として回覧され、やがては遥香自身が政府の会議に呼ばれて質疑を受けたという。如何に彼女でも一介の女子高生である。どんな心持ちだったかは想像に難くない。それはやがて正式な論文として著名な科学誌にも掲載され、様々な検証を受けてもいまだに理論に反する結果は発見されていなかった。今では相対性理論に匹敵する大発見であるとの認識が定着しつつあるほどだ。それは同時に、人類史上初の異世界人との共著でもある論文、という点でも注目を集めている。この件に関わった4人。すなわちわたし、涼子、恵、遥香の連名になっているからだった。

「あの、先輩は?」

「ああ。涼子ももうすぐ来るだろう。まあ、わたしも昨夜話をしたばかりだがね」

等と言っている間に、扉がノックされる。

「姫様。涼子様をお連れしました」

「そうか。お通しして」

ややあって。

開かれた扉の向こうから現れたのは、自分の顔よりもよく見知った顔立ち。

己の半身ともいえる親友。

わたしたちは歩み寄り、そしてこの2年で何度目か分からない抱擁を再び、経験した。

涼子が囁き、ヒルダわたしもそれにこたえる。

「おめでとう、ヒルダ」

「ありがとう。涼子」

わたしたちの先行きがどうなるかは、まだ分からない。だがきっと、先に進んで行けるだろう。誰もたどり着いたことのないような、世界の果てまでも。

わたしたちは、世界を隔てる壁さえも乗り越えてきたのだから。


 ◇


おしまい

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