第36話 山猫と少年(前編)

【西暦1986年 水晶の谷】


荒い息遣いが、闇の中から聞こえていた。

夜の森を駆けるのは若者である。上等な衣を濡らすのは多量の汗であり、そして時折つんのめる様子からもその疲労が伺えた。

必死の形相を浮かべる顔立ちはまだあどけなさが残る。元服するかしないか、といった年頃の少年だった。彼は時折つまづき、そして立て直す。それを幾度も繰り返した果て、とうとうしくじった。転倒したのである。

それが、少年の生命を救った。

飛来音とともにかすめて行ったのは短刀。立木に突き立った刃には、ねっとりと黒い粘液が塗られている。

毒だった。

追ってくるのは数名の刺客。いずれも頭巾で顔を隠し、目立たぬ服装を身に着けた彼らは手慣れたものを感じさせた。

逃げなければ殺される。

されど、少年はすぐに絶望することとなった。行く手を崖が阻んだからである。

遥か下には、流れる水。背後からは刺客ども。

少年は、前進を選んだ。身を投げたのである。

水面が急激に広がり、そして―――


  ◇


「―――!?」

少年は飛び起きた。

周囲を見回す。

暗い。体にかけられていたのは毛皮。ここはどうやら雑木を円錐形に組み合わせただけの粗末な避難所シェルターか?狩人の狩猟小屋かもしれない。

安堵する少年。状況は分からなかったが、生き延びられたのだけは確かだったから。

と、そこで。

「みゃ」

そちらに目を向ければ、佇んでいたのは山猫。ずいぶんと立派な体格であるそやつは歩み寄ると、少年を見上げた。

思わず撫でる。―――逃げない。山猫は、気持ちよさそうに少年へと身をゆだねた。

少年の表情が、自然と緩んだ。

いつまでそうしていただろうか。

「ほう。珍しい。そいつが他人に触れることを許すとは」

耳慣れぬ声に、少年は振り向いた。入口にいたのは若い男。少年より二つ三つ年上であろうか?動きやすそうな服装に、複雑な紋様が全身へ描かれている。呪術師であろう。

少年は思わず腰へと手をやった。―――ない。あるはずのものが!

「ふむ?これか。扱いが分からぬから、ひとまず拭いておいた。取ったりはせぬよ」

呪術師が手にしているのは、くの字型に折れた不可思議な鉄塊。恐ろしく精緻な造りであり、握りとそして指をかけるのであろう機構がふたつ、備わっていた。くの字を構成する片方、筒になった部分の表面には形質保存の呪が描かれている。

「だがまあ、今のでこれが何なのかは分かった。武器か」

「……返してくれ」

呪術師は、言われた通りにした。

を受け取った少年はしきりにそれを確かめ、そして安堵する。その様子に呪術師は問いかけた。

「随分と大切なもののようだが」

「……母上から賜った。父祖の代より伝わる品だと聞いた」

今のやり取りで、相手に敵意はないと少年は悟っていた。さもなくば武装と分かって返すような真似はすまい。

「助けてもらったことには感謝する。だが、もう行かねば。…うっ」

「やめておけ。岸から引き上げたとき、お前さんの体は冷えきっていた。服もまだ乾いておらん。今は休め」

「……」

「みゃ」

「そいつも、そうしろと言っている」

猫にまで心配された気がして、少年は寝床に戻った。今さら気付いたが全裸である。手当ての跡もあった。この相手は信じてもよいらしい。少なくとも今は。

「そなたは……」

「私か?

私は、山猫の一族、アーシュマキーの子。アリヤーバタ」

アリヤーバタ。

その名を胸に刻み付け、少年は意識を喪失した。


  ◇


「お前さん、名は?」

アリヤーバタは鍋をかき混ぜながら尋ねた。

火を挟んだ反対にいるのは再び目を覚ました少年である。山猫はその回りをうろちょろと遊んでいた。

野営地である。適度な高所で、曙光が最初に差し、緩やかな斜面は土砂崩れなどの危険もない。そんな林の中。

彼らがいる、雑木で建てた編み上げ小屋ウィキャップは上から草を被せ、更には土の層もあって防水も万全だ。一雨来そうと見て手間隙かけてこしらえたのだが、幸か不幸か本来の役目を果たしてはいない。代わりに重傷者の暖かい寝床となったのだから結果としてはよかったのだろうが。

名を問われた少年は首を振って返答する。

「……言えぬ。言えばそなたに迷惑がかかる」

「お尋ね者か」

「違う。私には恥じるべきところなどない!」

「失礼した。謝罪しよう」

アリヤーバタは素直に頭を下げた。山猫がなついている。彼にとってはそれで十分だったから。

しばらくたち、料理が出来上がる。山菜。川魚。干したキノコで出汁を取ったスープである。よい匂いが小屋の中に漂った。

「食え。精が付く」

「……いただこう」

しばし無言が続いた。山猫も川魚へ食らいついている。

やがて、鍋の中身が減ってきた頃。

「……それを見て思い出したが」

「ぬ?」

口を開いたのはアリヤーバタだった。に視線をやった彼は続ける。

「この世界には時折、ないはずのものがあるという。逆に、あるはずのものがいつの間にか無くなっていることも」

彼の部族の言い伝えらしい。概要はこうだ。

世界には時折、穴が開く。そこからはたまに何かが転がり落ちてくる。大抵は大したものではない。花一輪。虫一匹。獣や何らかの器物。逆にこちらから穴の向こうに転がり出るものもある。いつの間にか失くしている小物があるのはこれが原因なのだとか。このような現象は世界中で頻繁に起きているが、大抵は小さすぎて誰にも気付かれない。見慣れない花が一輪、山奥に出現していたとして誰が気付くだろうか?というわけだ。

唯一穴の存在に気が付けるのは、猫の一族だけなのだという。彼らは気ままに穴を抜けて旅をする。あちらへ行ったりこちらに来たり。だから猫は世界の外にも住んでいるのだと。

山猫の一族の間では、この穴を"猫の道"と呼ぶとかなんとか。

「もしも穴の向こうにも人間が住んでいるのならば、彼らは奇妙なものを作るかもしれない。それのような」

「……正解だ」

「うん?」

少年の呟きは、アリヤーバタには聞き取れなかった。

「いや。面白い話だと思っただけだ。

ところで、そなたは何故このような場所に?」

「武者修行だ」

少年は、山猫の民と呼ばれるひとびとの生業を思い出した。山岳民である彼らは産業に乏しい。結果として選んだのは出稼ぎだった。それも、傭兵。勇猛果敢な彼らはどこの領主も取り立てたいと願う精強な兵士である。世界広しと言えども生身で甲冑を狩ることが可能なのは山猫の民を除いておらぬだろう。

「山猫を連れてか?」

「山猫は我らの師だ。彼らの生き様を観察することで、我らはわざを授かる」

猫の類は高所より落ちても無事に着地する術を生得している。観察によってそれを習得しているのが山猫の一族なのだ、とアリヤーバタは語った。

「山猫はあらゆる事を知っている。されど多くを語らない。一生かけても我らは山猫の叡智のほんの一滴を学べるに過ぎない」

「もったいぶっておるのだな」

「ああ。たまにもどかしくなる。されど時に、山猫はとても素直だ。

―――今のように」

一拍遅れて、少年も気が付いた。山猫が毛を逆立てていることに。

アリヤーバタが、傍らの剣を手に取った。更には手斧と縄を身に着ける。少年も武装を納めたのベルトを手早く腰に取り付けた。

「合図したら飛び出すぞ」

「承知」

ふたりと一匹が飛び出した、直後。

強烈な火球ファイヤーボールの爆発が、編み上げ小屋ウィキャップを押しつぶした。

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