第28話 縁切り
太陽が沈み行く。
そこは木々のヴェールに覆われた空間。幹線道路から一歩踏み込んだだけだというのに、静謐なる空気は外界を完全に遮断していた。
敏馬神社。阪急岩屋駅からも程近いこの場所にいたのは二人の少女。遥香と恵である。彼女らはここをよく訪れていた。友人の回復祈願のために。とはいえ、今訪れている理由は異なる。
社殿の前に立つふたりは、無言。
それはどれほどの時間続いただろうか。夕日が完全に沈んだころ、ようやく、遥香は口を開いた。
「恵。病院の、あれ―――」
そこまで言って黙り込む遥香。なんといえばいい?紙パックが空中で静止した原因は一体何なのだろう。とでも問えばいいのか?いや、あれは本当に起きた事なのか?あれではまるで超自然現象ではないか!!
学究の徒を自任する遥香にとって、現実とは時に予想を超越するものだった。歴史上、それは幾度も起き、そのたびに科学の歴史は塗り替えられてきたのだから。
だがあれは。病院のロビーで起きた現象はそんなものではない。自分たち3人だけが観測した事象。再現性はあるのか?あるとして条件は?それよりも、皆で似たような幻覚を見ていたという可能性の方が大きいのでは?
分からない。まるで狸にでも化かされたようだ。実際にそうならばいいのに。いやいや。
頭を振って、その考えを否定する。冷静になれ。別に誰かが怪我をしたわけじゃない。実害は何もないではないか。だが。
分からないからこそ、恐ろしい。次にあれが起きたら?バイクを運転していて、知らぬ間にブレーキレバーが引かれていたら?線路の上に石が置かれたら?理科室で硫酸の瓶が割れたら?
遥香の思考がループに陥りかけた時だった。
「……部長。実は―――」
声を絞り出したのは、恵。憂いを帯びた表情を見せる彼女は、やがて決心したかのように続きを口にした。
いや。口にしようとして、彼女は急激に振り返った。
釣られて振り返った遥香が目にしたのは、石段を登ってくる影。一瞬身構えた彼女は、すぐに脱力した。なぜならば登ってきた男性の服装は、どう見ても神職のものだったから。社務所からやってきたのだろう。何ら不思議はない。
だが、それならばどうして恵は厳しい表情をしているのだろう。遥香を庇うように、前に出たのは何故であろうか。
理由はすぐ、明らかとなった。
神職の男の背後から続いてきたのは、服装もバラバラな男たち。唯一の共通点は、そいつらが顔を隠していること。マスクとサングラスに帽子、フルフェイスのヘルメット。あるいはストッキングを頭から被っている者までいた。これで警戒するなという方が無理がある。
遥香は周囲を見回して舌打ち。石段だけではない。もう片方の出入り口も、数人が塞いでいたからである。
その様子を気にする風でもなく、神職の男は口を開いた。
『失礼。お嬢さん方。ちょいとお尋ねしたいことがあってのう。
どうやって我が術より逃れてこの場で正気を保っておるのか、ご教授願えませんかなあ』
年齢に見合わぬ、深く。そしてしわがれた声であった。まるで人間とは思えぬほどに。
だから遥香は即座に行動に出た。助けを呼んだのである。
「誰か!!」
ここは住宅街と商業施設に隣接している。声は間違いなく届くだろう。さらにスマートフォンで110番コール。trrrrrrr……と、小さな電子機器は静かに、しかし確実な動作をした。
だから、助けが来なかったのは彼女らの行動がまずかったからではない。単に、救いを求める声が外に届くのを阻止されただけだ。
ぶつっ。という音とともにスマートフォンが沈黙。遥香の叫びは外へ届くことなく木々の合間で乱反射し、やがて減衰して消滅する。
社殿に宿る
『危ない危ない。騒ぎが大きくなるのは困るでのう』
顔を隠した男たちが手に手に凶器を構えて前に出た。
明らかな殺意に、少女たちはひるむ。
『さあ。かかれ』
男たちが踏み込んだ。
◇
病室の窓から、夕日が沈んで行った。
昼間の一件。精霊のいたずらについては結局、皆が無言を貫いた。受け入れられなかったのだろう。友人たち。特に遥香は筋金入りの合理主義者だ。起きたことが現実であるならば、なんとしてでも受け入れようとするはずである。だが、そんな彼女にとっても、明らかに物理法則に反した挙動は理解しがたいもののはずだった。わたし自身でも同じことを再現できる保証はない。科学にとって重要な要素の一つに再現性がある。同じ条件を用意すれば、同じ現象が起きねばならない。それが定めだ。この世界での。だが、魔法にそんなものはない。同じ術を用いようとも、厳密に同じ挙動をすることは決してないのだ。あちらの世界で工業化が起きないのもそこに起因する。あらゆる製品は職人が己の勘を頼りにひとつひとつ、手作りしていくしかなかった。
何が起きたかを説明するには、どうしてもわたしの正体に言及する必要がある。怖かった。この心地よい関係性を壊してしまうのも。涼子が友人を失ってしまうことも。
だからわたしは、電話一本かけることもできない。手にしたスマートフォンには、友人の。遥香の電話番号が表示されたままだ。
―――それが、突如崩れるとは。
並んでいた着信履歴。そこから、遥香の名前が消え去った。恵の名も。いや違う。文字列は歴然としてそこにある。だが意味が読み取れない。まるでゲシュタルト崩壊していくように、漢字一つ一つの意が理解できなくなっていく。文字が崩れる。それで終わらない。遥香とは誰だ?恵なんて言う名前は知らない。分からない。
わたしの内から急速に消し去られていくふたりの人間。それに抗う。全霊力を持って名前を掴む。この
渾身の
強烈な消去の奔流とわたしの霊力。ふたつのぶつかり合いは、すぐに決着がついた。
―――いったい、何が。
わたしの内には、ふたりの友人の名前がしっかりと刻まれている。ということは、勝ったのだろう。遥香。恵。彼女らの身に、一体何が。
ただひとつだけ確かなこと。それは、今の現象が魔法によってもたらされたということだ。わたし以外の魔法使いがこの世界にいる!
ベッドで横になってなどいられなかった。椅子に掛けてあった上着を手に取り、サンダルを履く。立ち上がる。
わたしは、病室の窓から飛び出した。
◇
人体が、宙を舞った。
巨躯を跳ね飛ばしたのは、少女の繊手。目にもとまらぬ恵の一撃がそれを成し遂げたのである。
それは始まりに過ぎなかった。鉄パイプが吹き飛ばされる。腕の関節が破壊される。足が払われ、どころか勢い余って上下がひっくり返る。強烈な蹴りが。蛇のようにしなる腕が。恐るべき打撃が。恵が動くたびに一人が打ち倒され、踏み込むたびに一人が破壊された。鍛え上げられた武術のわざは、もはや魔法の域にあったのである。
もはや残るのは神職の男ただ一人。
『いやはや。長生きはするもんじゃのう。この短期間で、これほどの達人に3人も出会うとは』
油断なく身構える恵。その背後で、遥香は感嘆のため息をついていた。後輩が武術の達人なのは知っていたが、これほどとは。
対する神職の男はしかし、落ち着いていた。遥香には分からなかったが、まだ彼の魔法は破られてはいなかったのである。
どしん
石段の向こうから聞こえてきたのはそんな音。
幾つものそれはたちまちのうちに大きくなり、そして正体をあらわにした。
駆け上ってきたのは、二匹の狐。だがそいつらは生きてはいない。石で出来た狐が生きているはずがない!!
「馬鹿な……っ!?」
遥香と恵には見覚えがあった。石段の下にある稲荷社。そこを守る、二体の石像。
だが、それがなぜ人間を襲う?いや。それ以前に、どうすればいい?どうやればこいつらから生き延びられる?
それで終わりではなかった。
恵に倒された男たちが立ち上がる。五体満足な者だけではない。腕関節が破壊されたもの。足がへし折れている者までもが。
そいつらのひとり。その顔を隠している覆面がはらりと落ちて、少女たちは愕然とした。
何故ならば、そこにはあるはずの顔がなかったからである。のっぺりとした土で出来たその構造物は、まるで子供が捏ねた粘土細工のよう。
この世界には存在せぬはずの魔法の産物。泥人形と呼ばれる疑似生命体であった。
まるで悪夢のような光景に、さしもの遥香も目眩がする。何故。どうして!?
包囲を狭めてくる悪しき魔法の産物たちに、少女たちは気圧された。
『さあ。その娘たちを捕らえるのだ!』
命令が、下された。
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