第26話 妖精のいたずら
【西暦2018年 日本国 兵庫県神戸市中央区 HAT神戸】
「お困りですか?」
その声に、老人は顔を上げた。
海を背景に立っていたのは美しい娘である。腰まで届く黒髪。顔立ちは流麗であり、抜けるような白い肌。そしてその唇は深紅。身にまとっているのは濃紺の布地からなる頑強な服装。いわゆるブレザーであるが、老人はその呼び名を知らない。
「ああ。実は、病院への道が分からなくなりましてのう。歳ですかなあ」
老人は、ばつの悪そうな顔をした。周囲には乳母車を押した主婦や、ジョギングしている男性の姿などが見える。沖合いの神戸空港から飛び立っていくのは巨大な旅客機。
ここは海辺の公園であった。
「病院の名前はわかりますか?―――ああ、ちょうどよかった。私もそこに行くところなんです。
ご一緒しませんか」
娘は、老人より聞いた病院名に顔を綻ばせた。
「おやまあ。ご病気ですかな」
「いえ。友人の見舞いです」
「そうですか。大変ですなあ。
では、せっかくです。ご厚意に甘えさせていただきますわい」
よっこいしょ、と老人は立ち上がった。服装は地味な上下に、ベージュのベスト。傍らに立っていた四点支持杖へ手をかける。
「こいつは便利ですが、どうにも慣れませんなあ。なんと言いましたかな。人間……?」
「人間工学。ですか?」
「おお、それです。お詳しいですなあ。お嬢さん」
それほどでも。と娘は控えめに否定する。
「しかし、凄いですなあ。使いやすさまで学問になってしまうんですなあ」
「歴史的には、1910年ころが嚆矢と言われていますね」
初めて人間工学という言葉が登場したころ、これは労務改革のメッセージとして用いられた。当時機械工学は驚異的な進展を遂げていたが、ヒトを扱う術はそれに見合った発展をしていなかったのである。このギャップを埋めるための科学として、人間工学は誕生したのだ。
ということを、歩きながら娘は説明。老人はうんうん、と納得の表情で頷いている。
やがてたどり着いたのは、巨大な建物。海辺に建造されたそれは、ヘリポートまで完備した病院なのだった。
自動ドアを潜り、ロビーに入った時点で娘は振り返った。
「ここで大丈夫ですか?人を呼びますか?」
「いえいえ。大丈夫ですわい。自分で聞くとします」
深く頭を下げた老人に対して、では、と会釈すると、娘は受付へ向かった。
その背を眺めながら、老人は。その肉体に入り込んだ
◇
「生きてたか」
「―――生きてたか。じゃないでしょ。もー」
そこは病室。陽光が差し込む暖かな部屋である。そのベッドに横たわっている少女こそ、友人。蛭田涼子だった。
「心停止したと聞いてな。慌てて様子を見に来た」
「まあねえ。さすがにちょっとお花畑が見えたかな。けど今は見ての通り、ピンピンしてるから」
「さすがだ。不死身だな」
「あはは。わたしを殺すなら癌じゃ、ちょっと不足かな。
―――お見舞い、ありがと。二人とも」
遥香は、先客へと目をやった。碧の和服を着た彼女は
まさか本当に目の前に異世界人がいるなどとは露ほども思わず、遥香はリュックサックの中身を取り出した。
「頼まれてたものだ。重くて敵わん」
「ありがと」
「ちゃんと返せよ。退院してからでいい」
受け渡されたのは巨大な本。高級紙で綴られたその題名は「タイム・イン・パワーズ・オブ・テン」。時間に関する図鑑である。見た目からもわかる通り女子高生の財布に与えるダメージは大変大きい。
嬉しそうにペラペラとそれをめくる友人は、ふと声を上げた。
「ねえ」
「なんだ」
「ふと思ったんだけどさ。量子論だと、ミクロの領域は古典力学が通用しないじゃん」
「うむ」
「じゃあ、そのミクロな領域が、もっと大きかったら。目に見えるくらい。マクロな範囲にまで広がってたらどうなってたかな」
「そりゃあ、物質が今の形を取るなんて不可能になるだろうな。そもそも太陽の核融合だって量子論的作用が一枚噛んでる。下手すると一瞬で燃え尽きるんじゃないか?」
「うーん。そうじゃなくて。今のまま、人間の存在を許す形で世界があったと仮定して。その上で、そんなマクロな不確定性の影響が見てわかるくらいにあったら」
うまく説明できないでいる涼子。そこへ助け船を出したのは、後輩だった。
「えーと。要するに、物理法則を測定しようとすると、色々といたずらしてパラメータを変えちゃう妖精さんがいる。って仮定したらいいんじゃないですか?」
「そう。それそれ!恵、偉い!」
「いわゆるラプラスの魔やマクスウェルの悪魔のバリエーションか。なるほど。
……少なくともニュートンは生まれないだろうな。ガリレイも。フェルマーはどうだろう。もちろん、古典的力学を発展させた先にある相対性理論なんてもってのほかだ。電磁気学も厳しい。マクスウェル方程式は相対性理論の別解だからな。
そんな世界では古典力学が機能しない。今の科学の土台になっている、色んな理論は発見できないだろう」
「だよねえ」
「どうしたんだ。藪から棒に」
「いや。なんかさ。そういう世界を夢で見たの」
「なるほど。妖精さんはいたか?」
「いたねえ。色々と。お願いしたら聞いてくれるの」
「そりゃ都合がいいな。だがそれなら、じっとしてくれるようにお願いすれば物理法則を図れないか?」
遥香は苦笑。聞く限りではまるで魔法ではないか。
対する涼子は
「考えてみて。
『じっとしてる』って、何?」
「何って、そりゃあ……ああなるほど。相対性理論か」
相対性理論。全てのものは、他者との比較でしか計ることができない。言い換えれば、絶対的な基準がないのだ。二十世紀最高の頭脳が産み出した現代科学の基礎理論。
涼子の言からすれば、件の『妖精さん』は静止した状態が存在しない。『妖精さん』に静止するよう頼もうにも、そもそもの静止した状態が分からないから頼みようがないのだ。
「どっちかというと不確定性原理のほうだと思うけどねー」
「まあ、この場合はどっちで例えても適切だと思いますよ。先輩」
「そりゃね」
「いやはやなるほど。
妖精さんがじっとしているところを誰も見たことがないから、妖精さんに『じっとしている』を説明出来ないわけか。こりゃとんちだな。
…ふむ。そんな世界があるとしたら、人間が存在するにはどんな条件が必要となるか」
「うーん。物理法則は根本的に違うからねー。ひとつ数値変えたら全部いじらなくちゃいけないし」
「思ったんですけど、これって人間原理ですよね」
「それも強い人間原理だな。人間の存在を許す物理法則が何通りあるかは分からんが」
人間原理。宇宙に人間が存在している理由を、人間の存在による必然とする考え方である。中でも強い人間原理は、「人間が存在しなければ宇宙は観測されない。よって宇宙は人間が存在する構造でなければならない」とされる。
「この場合の"人間"は、我々の宇宙と『妖精さん』のいる宇宙の間で互換性があることになるな」
「じゃあ、この二つの宇宙を行き来できるってことですか?」
「片方の人間をもう片方に移動させても生存は可能だろうさ。問題は、どうやって移動させるか、だな。そこまで行くとサイエンスフィクションというよりファンタジーの領域だが」
「あはははは……」
意識だけとはいえ実際に移動してきた当人が目の前にいるなどとはついぞ知らず、議論を白熱させる遥香と恵。
そうやってしばし会話に花を咲かせたところで。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」「あ、私も」
席を立つふたりの客。外を見れば、もう日が傾いている。
彼女らはにこやかに病室を後にすると、廊下を抜け、階段を降りたところで。
「あの。部長…」
「ああ。ひどい顔してた」
遥香は恵へと頷いた。涼子は隠そうとしていたが、泣きはらした跡が明らかだったのである。闘病生活と相まって、その姿は無惨だった。会話にもキレがなかったし、あんな涼子は二人にとって初めてだ。
会話を続けるふたりが、出口に差し掛かったところで。
「どうしました?部長」
「ああ、来る途中、道案内したひとがいてな」
遥香が会釈したのは地味な服装の老人である。彼も帰るところなのだろうか。まあ、もう関わることはあるまいが。
ふたりの少女は、家路に就いた。
◇
「……」
調息し、体調を整える。
ぼーっとしていて、ふと気付いた。暗くなりつつあることに。
何の気なしに印を切る。出現したのは
先の議論は楽しかったし、かなり核心に近づけたという手ごたえも感じた。二つの世界の根幹を成す法則性の。
しかし、それでは説明がつかないのがこれだった。わたしは魔法を、地球でも使える。魔法があちらの世界だけの法則とするならば、これは説明がつかないこと。
あと一つ。何かが足りない。非常に重要な
まあいい。今はもっと差し迫った問題がある。
鬼火を送還したわたしは、ベッドの中にもぐりこんだ。
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