第25話 木漏れ日の中で

【西暦1979年 琥珀の森にて】


「いにしえのハイパティアは、ははうえのこきょうからきたのですか?」

「ええ。私はそうなんじゃないか、と思ってるわ。

あなたはどう思う?私の可愛いぼうや」

「……わかりません。むずかしいです」

木漏れ日が心地よい午後だった。

地衣類に覆われた大地は柔らかだ。その上で戯れているのは幼子と母親である。高貴な身分であろうことは一目で伺えた。

木々の合間より時折様子を伺ってくるのは森の小妖精たち。そして数名の供の者以外、この場には誰もいない。

ここでは、穏やかな時間が流れていた。

母親は、側にいた供へも尋ねた。

「貴方はどう?ヴァラーハミヒラ」

「…確かに、妃殿下のおっしゃられる記録と、そしてこの世界に伝わる伝承は合致する点が多々あります。しかし異なる点も目立ちまする。

まず、の記録におけるハイパティア。この人物は大図書館の館長ではなかった。アレクサンドリア図書館最後の館長はハイパティアの父テオンであったと。ハイパティア自身は優れた数学者であり、1600年前にによって虐殺されたと。

しかしこの世界における伝承では、ハイパティアはアレクサンドリア図書館の最後の館長であり、そこを追われてきたとあります。

この食い違いはいかなる理由で生じたのでありましょう?」

「私が考えるに、言語のせいね」

「言語、でありまするか?」

「ええ。

この世界の人々は古代アレクサンドリアの言葉なんて知らなかったでしょう。定住するにあたって、ハイパティアの側が覚えたに違いないわ。こちらの言語をね。

そして彼女は優れた数学者であり科学者だったから、記録を取る努力は怠らなかったはず。事実、地球には彼女の書簡が残ってるくらい。

けれど、それは彼女の故郷の言葉で書かれた」

「ハイパティアの没後、それを読み解けるものがいなかった、と?」

「ええ。だから彼女の口述。母語でない言葉で四苦八苦しながら伝えられた話の方が広まり、人々の間で事実と受け入れられた。色々と伝言ゲームの過程で簡略化されてね。あそこの王家の書庫を探せば事実が分かるかもしれないけど。

ハイパティアには同情するわ。どうやって虐殺から逃れて来たのかは分からないけれど、船の難破した先が異世界で。現地人に捕まって。生け贄として火口に投げ落とされかけたところで、火山の主に救われた、って言うんだから」

私と同じね。と母親は苦笑。この女性が幾多の苦難を乗り越えて今、ここにいることをヴァラーハミヒラは知っていた。

「この話はしたかしら?

右も左も分からない頃、山賊に追われた私を河の精霊が助けてくれたの」

「はっ。

魚や亀が集まり、その身を橋にしたと聞き及びました」

「あの時はにでもなった気分だったわ。

ひょっとしたら、地球にもこちらの世界の人が来たことがあるのかもしれないわね」

信じがたい霊力だった。魔法の魔の字も知らぬ小娘を、河の精霊が自発的に助けたと言うのだから。

この力こそ、彼女が。身寄りもない、異世界人だと名乗る女が、王に見初められた理由なのだ。第三夫人として迎えられたのである。もっとも、彼女の価値は力だけにあるのではないが。

カロライン・ハーシェル。百年ほど前の天文学者にちなんで名付けられたというこの異世界人は、それに恥じぬ知性と教養を備えていたのである。

「殿下は、戻りたいとは思われぬのですか?」

「地球に?

……あっちの世界にはね。何もないの。私がしがみつきたい、って思えるものが。大切なものは全部失った。嫌なことがあった。たくさん。それこそ死んでしまいたくなるくらい。

それに。いつ滅んでもおかしくないの。あちらは」

冷戦コールド・ウォー。そう呼ばれる対立が、二つの勢力の間で繰り広げられているのだとカロラインは語った。大量の。それこそ世界を滅ぼせるくらいの破壊兵器を向け合って、がんじがらめになっている世界なのだと。

ヴァラーハミヒラは身震いした。こちらの世界の儀式魔術でも、例えば都市ひとつ焼き尽くすことはできる。星を落として山を砕くことも、津波を呼んで何十キロという範囲を飲み込むことも、大地震で国ひとつを滅ぼす事だってできる。

―――相手が防御手段を講じていなければ。

しかし、地球の兵器。は防ぐ術がないのだという。そんなものを無数に、互いに向けあっていると言うのだ。疑心暗鬼になって。片方が撃てば、もう片方も報復するだろう。それはたちまちのうちに拡大し、そして世界は滅ぶというのだ。互いが自制していられるのは、その恐怖からなのだ。

なんと言う狂気。

「こっちでも辛い事はたくさんあったわ。今だって色々苦労してる。

けどね。私は、宝物を手に入れたの」

彼女は、撫でた。宝物を。いつの間にかすやすやと眠りに就いた愛しい我が子を。

「陛下には感謝しているわ。私に安住の地と、家族をくれた。

もちろんヴァラーハミヒラ。貴方にも感謝してる」

「もったいないお言葉でございます」

ヴァラーハミヒラはこうべを垂れた。彼は己の役目を果たしているだけだったから。

「願わくば、この子を。アルフラガヌスを、ずっと見守ってあげて頂戴ね」

「はっ」


  ◇


【西暦2018年 "図書館の国"王城】


そこで、目が覚めた。

ヴァラーハミヒラの眼前に広がっているのは見慣れぬ天井。豪奢な装飾画が広がっているからには、どこかの館なのであろうが。

身を起そうとして激痛。全身に走るそれは、特に腰のものがひどい。いや、腰を固定されているのであろうか?

「やめておけ。腰の骨が折れておる」

苦労して、声のしたほうへ顔を向ける。

見知った顔。45年間見続けた顔だった。

「これは陛下。ご無事でしたか。

……ということは、勝ちましたかな」

「うむ。よくぞ働いた。ハイパティアの書庫はもはや我が手中にある。

今は、学士どもを総動員して宝探しの最中よ」

魔法王アルフラガヌスは、鷹揚に頷いた。心なしか機嫌がよい。

それはそうだろう。長年の戦い。今回だけではない。血みどろの権力闘争。内乱。幾多の死と破壊を乗り越えて、ようやくここまでたどり着いたのだから。

ハイパティアが残したという禁断の知識へと。

「体をしっかりと癒しておけ。期待通りのものが手に入れば、そなたの力が必要となる。

母上亡き今、この世界において最もについて詳しいのはそなただ」

「となれば、いよいよ……?」

「うむ。

広大無辺なる地球の領土。そして深淵なるの叡智と力を、我が手にもたらすのだ」

「はっ!」

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