第23話 綻び
もう、失いたくない。
もう、手離したくない。
あんな事になるだなんて思ってなかった。あんなにも一瞬で、失くしてしまうだなんて思わなかった。
もう戻ってこない。もう帰ってこない。
その事実を受け入れるまでに何年もかかった。本当は、まだ受け入れられていないのかもしれない。
それでも一つだけ言えることは。
二度と、もう二度と、あんな思いは──。
「……天真くん、まだ来てないね」
教室に入るなり、悧巧がそんな事を言う。その顔には安堵のような緊張のようなよく分からない感情が浮かんでいて、器用だなと思う。
出会って二日目だが、くるくるとよく変わる表情は見ていて飽きない。
それと同時に、懐かしい顔を思い出させる。
「あいつはいつも遅刻ギリギリに来る」
「へぇ……まぁ、そんな感じに見えるもんね」
それはチャラチャラしている、という意味だろうと思われる。確かに亜砂は一見すると不真面目な生徒であり、実際にも不真面目な生徒だ。
そうでなくとも悧巧はあいつが苦手らしく、元から印象は悪いのだろう。
亜砂の方は……どうなんだろうか。少なくとも昨日の様子では悧巧を嫌っているようには見えなかった。あいつは、嫌いな相手を自分に近付けさせない。
亜砂は悪意に敏感だからな……。分かってしまう理由があるから仕方ないのだとは思う。
もっとも、テンリではその限りではないかもしれないが……。この考えはやめておこう。思考の泥沼にハマる予感がある。
「……」
席に着いた悧巧を盗み見る。昨日は女子達が大量に群がっていたが、今は誰一人として寄り付かない。
転校初日でチトセが暴れたからとは言え、勝手な奴らだ。
そんな彼女は落ち着きなく辺りを見回していた。
あいつ、何であんなに挙動不審なんだ……? 俺が亜砂と話をするから気にするなと言ってあるのに。
いや、彼女の場合元からあんな感じなのかもしれない。感情が動作や全身に出やすいのだろう。
それにしても、遅い。亜砂はいつになったら登校してくるんだ。もう予鈴が……いや、たった今本鈴も鳴ったぞ。
亜砂の場合、サボりの可能性も否定出来ないのが難しいところだ。テンリに取り憑かれる前も今もあいつは気紛れに来たり来なかったりする。
しかし、亜砂ならまだしも担任も来る気配が無い。担任が来ないまま十分が過ぎ二十分が過ぎ……流石に様子がおかしいと思ったクラスの連中が騒ぎ出す。
「先生遅くない?」
「職員会議が長引いてるんじゃないの?」
「でも隣のクラスはもう来てたぞ」
不安がっていると言うよりも面白がっているような、そんな声があちこちから聞こえてくる。ざわめきが増す教室内では席を立って彷徨く生徒も出始めていた。
……何となく、この辺りで嫌な予感がしたのはどうやら俺だけじゃなかったらしい。悧巧の不安そうな視線がこちらに突き刺さる。
チトセはいないし、シノは眠っている。
だがあいつはその限りではないのだ。テンリは日頃から何を考えているのかよく分からないが、あれはあれでかなり沸点が低い。
過去にもイチャモンをつけてきた生徒の腕の骨を折ったことがある。それはシノも俺の体でやった事だが。
「知らないのか? 結構騒ぎになってたのに」
「あたし知ってるー。誰か倒れたんでしょ? 保健室に運ばれたって」
……倒れた? まさかテンリが殴り倒したのか? 朝一から?
いや、それにしては情報がおかしい。障害事件ならもっと違った種類の騒ぎになるだろう。というかそもそも、テンリがやらかしたという前提が違っている可能性の方がある。
「扠廼!」
駆け寄ってきた悧巧が俺の肩を掴んだ。
やけに焦ったような顔で俺を見る。
「聞いてなかったの!?」
「……何をだ? やっぱりテンリが何かやったのか?」
「ああ、もう! 扠廼って意外と鈍いんだから……! そうじゃなくて! 倒れて運ばれたのが天真くんなんだって!」
「何?」
それは本当か、と口にする前に悧巧が強引に腕を引く。椅子から転げ落ちそうになるが、彼女は構わずに廊下へと走り出した。
突然降ってきた情報を前に混乱している俺は慌てて悧巧の後を追う。直に授業が始まる時間だがどうせ担任も来ていないのだ、そんな事は気にしていられない。
「クラスの子達の話を断片的に聞いただけだけど、学校に着くなり倒れたとかで……でも意識はあるから救急車呼んだりとかはなかったって。でも、これって……」
「同化の影響か」
悧巧は無言で頷く。それしかないだろうな。だとすれば一刻も早く保健室に向かうべきだ。
一瞬、背筋に冷たいものが走る。亜砂は恐らく俺よりも同化が進んでいる。今から会う亜砂は、まだ天真 亜砂でいるのだろうか?
もしも、全て喰われて消えてしまっているとしたら。
「亜砂!」
乱暴に保健室の扉を開け放つと、ぎょっとした様子の保健医と目が合った。騒がしいだとか、そういった注意をしようとしたようだが吊り上げられた目はみるみる穏やかなものになる。
「ああ……天真くんのクラスメイトの子かしら。大丈夫よ、彼、ちょっと熱があるだけだから。付き添いに来てた担任の先生もついさっき教室に戻られたわよ」
やや遅れておずおずと悧巧が入ってくる。先に彼女が飛び出したものの、途中で俺が追い抜いたのだ。
「疲れから来るものだと思うけど……そっちのベッドで休んでるわよ。あんまり顔色は良くないけど」
指差されたのは一番窓際だ。カーテンが引かれている。保健医はわざとらしく溜息を吐いて頬に手を当てた。事の重大さなんてまるで理解していないかのように。
「親御さんに連絡して迎えに来てもらうように言ったんだけどねー。本人が嫌がるのよ。でも帰った方が良いと思うし、友達なら君が説得してくれない?」
思わず舌打ちが口をつきそうだった。八つ当たりだとは分かっているがイライラする。
連絡だなんて。一体何処の誰にすると言うんだ。
学校側は、生徒の家庭事情をある程度把握しているものじゃないのか?
「扠廼?」
突っ立ったままの俺の顔を悧巧が不安そうに覗き込む。別に悧巧を困らせたいわけじゃない。だけど言葉が出てこなかった。
亜砂を心配する思いと、何故俺達がこんな目に遭っているのだろうという様々な理不尽への苛立ち。それらが思考を阻害する。
「あの……先生。天真くんを説得してみるのでちょっと席を外してもらえませんか? 無理を言ってるのは分かってるんですけど、込み入った話になるので……プライバシー的なあれそれっていうか……」
「あまり長い時間じゃなければ良いわよ。朝からバタバタしてて職員室に色々忘れ物しちゃったし。その代わり手短かに話して、終わったらすぐに授業を受けに戻ってね」
説得しろとか言いながら無茶苦茶な要求をする女だな。咄嗟に悧巧が追い出す方向に話を持ち出してくれたから良かったが、そうじゃなければ俺の意思で殴っていたかもしれない。諸事情によりこの手の女は嫌いだ。
「何かあったらすぐに呼んでね」と言い残して保健医はいなくなる。
「扠廼、嫌そうだったから……余計なお世話だった?」
「良い、助かった。ああいう女は好かない」
「女って。いやまぁ間違いじゃないけど」
悧巧の呆れたような声を背に、カーテンに手を掛ける。断りを入れずに開け放つとベッドに腰掛けた亜砂と目が合った。
「寝てなくて良いのか」
「日比谷五月蝿いんだもん。あんな騒々しく入ってきたら寝てらんないって」
へらりと笑うのはいつもの亜砂だ。確かに顔色は悪いがそれ以外は普段通りに見える。
「お前は、亜砂で良いんだよな?」
「何言ってんの? 当たり前でしょ」
その当たり前はいつまで続くのだろう。
俺には分からない。今すぐにでも喚き散らしてしまいたい衝動に駆られる。刻限は確実に迫っている。期限が俺達の目には映らないだけで、それは確かに存在している。
俺が先に消えるのならそれで良かったんだ。もう誰かがいなくなるのを見なくて済むから。
だけどきっと、それは叶わない。
(隠し通すのが、正しいことなのかもしれない)
でもそんな事は出来ない。出来ない理由もそれが赦されない理由もある。
亜砂が訝しむように眉を寄せた。
そう言えば昨日会った女達、能力者とか言ったか。あいつらにもっと早く出会っていれば、あんな事は起きなかったのだろうかとぼんやり思う。
「……何? 日比谷、それ……何の話?」
俺が考えていることに反応して、猫のような瞳が不安定に揺れている。
亜砂はきっと怒るのだろう。こいつは、周りが思うよりずっと弱いから。
「亜砂、話があるんだ。落ち着いて聞いてほしい」
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