第26話 悼む
思い出を語る扠廼の横顔は穏やかで……悲しくて、時々小さく相槌を入れることだけしか出来なかった。壊れ物に触れるかのような優しい口調に、私が泣きたくなってしまう。
椎做ちゃん。扠廼や天真くんにとって太陽みたいで、……唐突にいなくなってしまった子。
扠廼は一度言葉を切り、表情を歪めて笑った。まるで彼自身を馬鹿にするみたいにして。それを見て嫌な汗が滲む。この話にはきっとどうしようもない真実がある。それを扠廼も隠そうとしていない。
穏やかだったはずの空気が、一瞬にして張り詰める。
「あいつは、叔父に殺されたみたいなものだ」
息を呑んだのは間違いなく私だった。そうでもしなければ喉がカラカラに乾いて、引き攣った声が漏れてしまうと思ったから。
叔父にって。だって、その人が椎做ちゃんを引き取ったんじゃ。血が繋がってるのに──家族なのに……!!
なんでっ、どうしてそんなと。拳を震わせた私に、扠廼は平坦な調子で続けた。
「叔父にとって、当時の椎做くらいの子供がそういう対象だったらしい。あいつを引き取ったのもその目的だった。……意味は、分かるよな?」
今度の今度こそ引き絞るような小さな悲鳴が自分の口から零れる。悍ましい事実に吐き気が込み上げる。私一人しかいなかったら胃の中のものを吐き出してしまった気すらした。
「椎做はそいつに道具のように消費されて、追い詰められて……マンションのベランダから飛び降りた。後から叔父のやったことが全部明るみになって、孤児院が初めから『保護者』の経歴や人柄を調べたりとか、面談をしたりとか、そういう義務みたいなものを億劫がってやってなかったのも分かって……叔父は捕まったし、孤児院も潰れた。もう、椎做は帰ってこないのに」
ひと夏の間に、全部終わってしまった。そう呟いて彼は憎々しげに天を仰ぐ。勿論、そこに空は無い。ただ無機質な天井が広がっているだけ。
「救えなかった」
顔を伏せる彼の名前を呼ぶ。きっと、これまでもずっと自分の無力さを呪ってきたんだろう。
私に彼らの痛みは分からない。想像することは出来ても、安易な共感なんて出来るはずがない。
でもそれは扠廼のせいでも天真くんのせいでもない。間違いなく悪いのは大人達で、彼らはその犠牲になっただけ。
でもその慰めはどうしてか喉に突っ掛かって出てこない。心臓は痛いくらいに五月蝿いのに、不思議と頭は冷えている。
胸の前で手を強く握り締める私を見て、扠廼は私の言いたいことを察したらしかった。
「違う。違うんだ悧巧」
悲しくて、痛い。耳鳴りがする。全身の血が燃えているみたいに身体がカッと熱くなる。それなのに指先だけが凍えるほどに冷たくて、凍り付いてしまったみたい。
違わないよ、と耳元で声が聞こえた気がした。
「俺が悪くないなんて、そんなはずはない」
そんな泣きそうな顔をしないで。
扠廼は悪くないでしょう。だって、悪いのは。
「俺は、知ってたんだよ」
♦
椎做が死んだ。何かおかしいって分かってたのに、俺には何も出来なかった。
友達も救えないで、……好きな子の「助けて」にも気付けないで、俺は本当に生きている資格なんてない最低の人間だ。
どうしようもない俺に宿ったこの醜い化け物みたいな力。椎做の心は悲鳴を上げていたのに。それを俺だけは知っていたのに。
お母さんの言う通りだ。俺なんか生まれてこなければ良かった。死んでしまえば良かった。今から、でも。
『やめろ、やめてくれ! お前までいなくなったら俺は……!』
扠廼こそ。どうして止めるの?
扠廼だって思ってるんでしょ。あの時、彼女の力になれなかったのに。その為のものだったのに。記憶の中の椎做の笑顔がモヤに覆われて塗り潰される。椎做はどうやって笑っていたっけ。
『椎做が死んだのはお前のせいじゃない! っだって! 誰も知らなかったんだから!!』
──その、瞬間。
俺の手を掴んでいた扠廼を突き飛ばした。
なんで。
やめてよ。
『何でっ! 今!! お前が嘘をつくんだよ!?』
目の前の少年が絶句する。その顔が泣きそうに歪んで、でも唇を噛み締めて堪えようとする。
やめて。やめてやめてやめてやめろやめろよ!!
なんで……何で! 椎做も扠廼も俺に嘘は言わないって、約束するからって、そう言ったくせに……!
『お前も俺のせいで椎做が死んだんだって思ってるんだろ!? だからさっきの言葉が嘘だったんだ!!』
『……は……?』
「違う」だとか「待ってくれ、俺の話を」だとか、扠廼のそんな声から耳を塞いで目を閉じる。もう見ない、見たくないし聞きたくない。
ねぇ、扠廼。
俺達、何を間違えたんだろうね。
やっぱり俺が悪かったんだよ。俺さえいなければ扠廼にそんな顔もさせなかった。俺さえいなければ、この力ももっと上手く扱える凄い奴に宿って、椎做のことも救ってくれた。
俺さえ、いなければ──。
熱に浮かされたみたいに、意識がふわふわする。だからだろうか、目を背けていた記憶が蘇るのは。
足元が覚束ない。空と地面がそのままひっくり返ったみたいで、正しく歩けているのかも自信がない。
……日比谷に、酷いこと言っちゃった。
嫌われただろうか、と思う反面、もうとうに嫌われてるか、だなんて。そんな冷静な声が自分の頭に響く。
日比谷とは何度も喧嘩した。喧嘩というか、俺がいつも一方的に当たり散らしていた。その度に扠廼は俺を宥めて、悪くもないのに「ごめん」と謝る。
成長するにつれて力は安定して、漠然と嘘が分かるだけだったこれは人の心の声まで聞こえるようになった。……何となく、だけど。
ますます人付き合いが駄目になって、本音と建前が違う人達が嫌いになって、いつしか俺も嘘ばかりつくようになった。嘘を吐く人間を軽蔑するのに、他でもない俺が虚言で自分を守ろうとする浅ましさに吐き気がする。
それでも日比谷が俺の隣から離れなかった理由を考える。あいつは優しいから、名ばかりの幼馴染を見捨てられなかったんだろう。
『ごめん、ごめん、亜砂……嘘をついたのは謝るから。許さなくて良いから。だから生きてくれ……! 死んだり、するなよ……!!』
じゃあ二度と俺に嘘をつかないで、なんて。
酷いことを言った。初めから信用してないのと同じことだ。
今更謝っても遅いかな。日比谷なら「そんなことか」「俺は気にしてない」って許してくれちゃうんだろうな。こんな俺のことも。
許したりなんかしないでよ。
それで、全部終わってから清々したって笑えば良い。
『……お前、何のつもり……?』
頭の中でぐわん、とテンリの声が反響する。前まではもっと遠かった気がするけど、いつからかすごく近くで聞こえるようになった。俺自身が喋ってるみたいに。
いつも俺を馬鹿にして見下しているその声は、今日は随分と力が無い。いい気味だ。
「ああ、なんだ。やっぱり奪えないんだ。朝から起きてたくせに、おかしいとは思ってたんだよ」
くすくすと声が漏れる。テンリの忌々しげな表情が簡単に思い浮かべられて少しだけ気分が上向きになる。
こんな感覚は久しぶりだな。俺の身体はもう、ずっと前から俺のものじゃなかったから。
「何のつもりかって? 今から、世界を救いに行くんだよ」
ゆっくりと階段を上る。
懐かしい。昔もよく三人で忍び込んだっけ。あの頃は鍵のせいで屋上には出られなかったから別の階の窓から街を眺めるのが好きだった。俺は少し怖かったけど、思えば高い所が好きなのは扠廼だったんだろう。俺達の中では大人びていたあいつが、そんな時だけ顔をきらきらさせて身を乗り出していたのを覚えている。
施錠されていた扉は、少し力を入れただけで簡単にドアノブが壊れた。……なんだ、やっぱりもう俺の身体とは違うんだ。
分かってる。これが正解で最善だって。
本当はもっと前から知ってたけど、選ぶのが怖かったんだ。
フェンスを越えて、屋上の縁に立つ。
見上げた青空は何処までも広くて、君がいなくなった日と同じ色をしている気がした。
いつも俺を止めてくれた日比谷はいない。恐怖で身が竦むかとも思ったけど、頭の中はずっと冷静だ。
「ざまぁみろよ、テンリ。お前は、今から俺と地獄に落ちるんだ」
なりふり構わず止めようとするかと考えていたのにテンリは不気味なほど静かだった。こいつが分かりやすかったことなんて一度もないけど。人間を傷付けるのを楽しんでいたのかもよく分からない。俺が何を聞いても一度も答えなかったから。
……ああ、でも。扠廼に一度も暴力を振るわないで済んで良かったな。
テンリが日比谷に手を出そうとしないで良かった。シノと対立するメリットが無かったからだろうけど、俺が日比谷を殺しかけるような事態にならなくて本当に良かった。
そして今のまま杞憂で終わらせる最期のチャンスが神様から与えられて良かった。
笑顔を作る。テンリのことがなくてもやっぱり遅かれ早かれこうなっていただろう。せめて、扠廼は思い留まってくれたら良い。あいつが躊躇出来るようにもっと凄惨な方法を選ぶべきなのかもしれないけど……これだけは、椎做と同じやり方でってずっと前から決めていたから。
「──君は、どれくらい痛かったんだろう」
足を、踏み出す。
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