第25話 追憶と後悔
「天真。先生が探してたぞ」
「……良い。放っておいて」
その少年の第一印象は、『暗い奴』だった。いつも部屋の隅で一人で蹲っている、自分と同じ年の少年。薄い髪色とアーモンド型の瞳が相まって、捨てられた仔猫のようだと思ったことを覚えている。
少年の名は天真 亜砂。彼も自分と同じように物心つく頃には母親に捨てられたらしい。
見たくないものが見えるのだと。そのせいで愛されなかったのだと。いつだったか、彼はそう零していた。
「疲れるから、嫌だ。だって皆、嫌なことばかり考えてる……」
被害妄想だ。ただの思い込みだと。そんな心無い言葉に、少年はこの場所でも傷付けられていた。同年代の子供達はそう言って彼を馬鹿にした。
だけど、自分は彼が『そんな奴』だと思えなかったのは、きっと彼を自分自身と重ねていたからなのだろうと思う。
それでも。いいや、だからこそ。自分は、少年にかける言葉を持たなかった。自分と似たものを感じたからこそ、自分自身がどのような言葉を望んでいたのか分からなかったから。
そんな中で。
「亜砂くん、扠廼。そんなところで何してるの? 私も混ぜて!」
その少女は、いつだって空気を読まずに首を突っ込んできた。
チョコレートのような色のとろりとしたセミロングの髪。大きな黒い眼が目立つ、愛らしい顔立ち。それでも、凡庸と言えば凡庸。そんな容姿の少女。
「
「かくれんぼしてるんでしょ? 先生から隠れる遊び!」
いつから、三人でいるようになったかは分からない。それでもいつの間にか三人で過ごす時間が増えて、打ち解けて。
気付けば、いつも膝を抱えて蹲っていただけの少年も笑うようになって。
「親に捨てられた私たちは、大人から見ればかわいそうなのかもしれないね。だけど私は今のままが充分幸せだなって思うよ」
そう言って笑う少女の笑顔は太陽のように眩しかった。
自分にとって彼女は正しく光だったのだろう。幼心に芽生えた、恋と呼ぶにはあまりに稚拙な淡い感情。それを自覚した瞬間、日比谷 扠廼は自分の思いに蓋をした。
気付いていたのだ。もう一人の少年もまた、自分と同じ思いを抱えていたことに。
二人の、大切な幼馴染。自分にとっての唯一の家族のような存在。
その関係を壊したくなかった。この日々が永遠に続くことはないのだとしても、自分から壊すような真似はしたくなかった。
「私たち、家族だもんね! あ、私が一番誕生日早いから二人より私の方がお姉ちゃんだから!」
「じゃあ、僕が二番目だ。扠廼が末っ子」
「お前らより下……? 俺が……?」
だから、今になって思うのだ。
もっと早くに気付いていれば。
もっと彼女を見ていれば。
もっと、彼女と話をしていれば──と。
ある日、枯蝶 椎做は自殺した。
燃えるような日差しが肌を焼く、夏の日のことだった。
♦
……今でも考える。ロクでもないこの力がもっと上手く扱えていたら。
そうすればきっと、あの子は死なずに済んだんじゃないかって。
『ああ、穢らわしい子。また失敗したわ──今度こそ堕ろすつもりだったのに』
何度もそう言って俺を殴ったあの人の顔はもう覚えていない。血のような真っ赤な口紅と噎せ返るような香水の匂いだけが記憶に残って、あの時受けた痛みも全部忘れてしまった。
俺を叩いて、殴って、蹴って。それでもあの人の心はいつだって泣いていた。だから憎かったわけじゃない。ただ悲しかった。
そんな心の悲鳴が聞こえることも。それを知りながら何も出来ないことも。
『アタシは今度こそ幸せになるはずだったのよ。そうよ、幸せになれた。幸せになれたはずだったのに! それを! お前が!!』
蹲ってじっと耐え忍ぶ。暴力の嵐が過ぎ去るのを、あの人が疲れ切ってその行為に飽きるまで。
『いつもいつも不気味なことばかり言って! ふざけないでよ! アタシは……私は……っ! う、うぅ……っ!!』
ごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。
良い子にするから、だから泣かないで。
『ああ、ああ! お前なんか……お前なんか、生まれてこなければ良かったのに!!』
どうか捨てないで──お母さん。
「……ねぇ、だいじょうぶ?」
大きな黒い目がじっとこちらを覗き込んでいる。部屋の隅でこうして膝を抱えていると、彼女はいつもこうやって様子を窺いにくる。
そういう奴は、今までに彼女以外にもいた。だけど皆、心配そうな顔の裏で打算ばかりを張り巡らせている。
……俺のこの力は何もかもが中途半端だ。相手が嘘をつけばその相手の周りに黒いモヤのようなものが見えるからすぐ分かる。負の感情はそうやって形に現れるから分かりやすい。だけど明確に何を考えているのかまではよく分からない。相手の心の声……? が聞こえることもあるけど、ほとんどはノイズに掻き消される。
でもそれでも分かることはあるのだ。俺に手を差し伸べる子の周りにはいつだってモヤが纏わり付いて見えたから。だから彼らが俺を構おうとしたのは親切心からじゃなくて。「誰かに優しくすれば大人が褒めてくれるから」。概ね、そんな理由に決まっている。
だけど椎做は違った。彼女はこんな俺のことを本当に心配していて、裏も表もない彼女の感情は俺を安心させてくれた。
「……大丈夫。ありがとう、椎做」
「大丈夫じゃない時は大丈夫って言っちゃいけないんだよ。それでも?」
怒ったような椎做の言葉に口籠もる。なんて答えれば良いのか分からなかったから。
でもおかしな事を口走って嫌われたくない。あの人が俺に向けたみたいな目を椎做には向けられたくない。当たり障りなく誤魔化せば少なくともそんな心配はしなくて良かった。だけど椎做はどうしてか、いつもそれじゃ納得しない。
「あのね、亜砂くん。我慢ばっかりしてたらわがままが言えなくなっちゃうんだよ」
「え……」
「だからほら、こんな時はわがままターイム! 扠廼のとこ行こ! 扠廼にええと……無茶ぶり? するの!」
“幸せ”っていうのがどういうものなのかは俺にはよく分からないけど。
でもあえて言うのなら、あの日々をそう呼ぶのだと思う。
それくらい二人の幼馴染との毎日は騒々しくて温かくて……ああ、家族っていうのはこういうものの事を言うのかと。
叶うならこんな日々がずっと続けば良いのに、なんて。
そんなあるはずもない未来を願ったりもした。
「……叔父さんが、迎えに?」
「ええ、そうよ。だから皆、椎做ちゃんとはもうすぐお別れなの」
その日は唐突に訪れた。
「祝福してあげてね」と笑う先生は当然、嘘なんかついていなかった。
椎做は俺や扠廼と同じように、親に捨てられた子供だ。ここには両親が死んでしまって引き取られた子達も少なくなかったけど、俺達はどちらかと言うと育児放棄や虐待が原因で親と引き離されたという意味合いが強かった。
他に引き取り手がいたのなら、そもそも孤児院に預けられることはない。だけど椎做の叔父さんだとかいう人は長い間連絡がつかなかったのだという。それが今になって椎做のことを知り、彼女を引き取りたいと申し出たのだと。
「良かったな、椎做」
扠廼がそう言って椎做に優しく笑い掛ける。
誰か新しく保護者が出来てここからいなくなることを、先生は“卒業”と呼んでいた。卒業していく子達は皆不安そうで、でも何処か期待に満ちた顔をしていて。彼らは残される俺達とは違う幸せを得られるのだろうと、いつもぼんやり思っていた。
俺も扠廼も、親は二度と迎えに来ない。それに、扠廼はともかく俺のような不気味な子供を引き取りたいと思う人もきっと現れない。
だから先生や皆が言うように──これは喜ばしいことなんだ。
「そう、だね。良かったね……椎做」
上手く笑えているのかな、なんて考える。きっと出来ていたはずだ。扠廼と椎做のおかげで笑顔の作り方を知ったから。笑って送り出さなきゃ。椎做は、外で幸せになるんだ。
だけどどうしてだろう。それを見た椎做の目が不自然に揺れた気がした。笑顔も何処かぎこちなくて──でも、周りは誰も何も言わなくて。
皆が口を揃えて「良かったね」と笑っている。
「……うん、うん。ありがとう、みんな。亜砂くんと扠廼も」
ざわ、と全身が総毛立ったのは。
そう言って微笑んだ椎做の周りに黒いモヤがまとわりついたからだ。
嘘をついている。
今まで一度も嘘を吐かなかった彼女が。
だけど、どうして? 何に対して?
「しい、な……待って。何で!」
混乱した俺は説明の為の言葉を持たなかった。衝動のままに彼女の腕を掴む。椎做の大きな目が俺を捉えて、また揺れて。
ねぇ、何で君が嘘をついたの?
何で、そんなにも悲しそうな目で、俺を。
「あらあら、駄目よ亜砂くん。ちゃんとお祝いしてあげなきゃ」
俺が掴んだ手を先生がそっと引き離す。それを聞いた途端怖くなって、何も言えなくなってしまった。
お祝い? お祝いをしなきゃ……俺も皆と同じように振る舞わなきゃ。
そうじゃなきゃ嫌われてしまう。嫌だ。捨てられるのは嫌だ。
君にだけは、嫌われたくない。
「……さよなら、亜砂くん、扠廼」
例えそう言って微笑んだ君の顔が、黒いモヤに覆われて見えなかったのだとしても。
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