第1章

第1話 もう一人の私

 これは、私にとって通過点に過ぎない物語だ。

 それと同時に、私にとっての始まりの物語でもある。


 何処から間違えたのか分からない。

 何が正しかったのか判らない。


 だけど、この話をいつか振り返った時。


 案外悪いものでもなかったと、そう言って笑えたのなら──。







 ♦


 教室が、小さな世界が、赤で染まる。

 いっそ鮮やかとも取れるそれは飛び散るごとに“私”の顔を、服を、ただ醜く汚していく。

 悲鳴はもう聞こえなかった。そんな段階はもうとっくに終わってしまっていた。


 いっそこれが悪い夢だったのなら、どんなにか良かっただろう? 手の中で光る赤く濡れた刃物も、この状況も全て何かの間違いなら、どんなに。

 だけど肉を抉る感触も、吐き気を催すほどの鉄の匂いも、拒んだところで何一つ意味をなさない事など分かっていた。


 ──どうして、どうしてこんな事に。


 泣き喚きながらクラスメイトへの謝罪を繰り返した。許してほしいとは言わない。言えない。

 ああ、ごめんなさい、私が……。


“私”が、殺した。


「……まだ、足りないわ」


“私”の口が言葉を紡ぐ。望む贖罪の言葉ではなく、歓喜と狂気で震えたそれを。うっとりと、悦に浸された吐息はあまりにも醜悪で吐き気がする。

 違う、と叫びたかった。いいえ、事実そう声を荒らげた。少なくとも私の意思はそれを望んでいた。


 だけど届かない。私には、“私”の凶行を止められない。

 もうやめてと、何度懇願したところで得られるものなど何も無い──。

 そんな私を嘲笑うかのように、“私”はもう一度肉片と化したクラスメイトの一人にナイフを突き立てた。







 とある公立中学校にて、一人の生徒が突然豹変。クラスメイトを惨殺後、自殺──。死亡者は四十人近くに達し、生き残ったのは“気を失っていた”おかげで難を逃れたただ一人のみ。


 今回、とある少女の身の回りで起きたある凄惨な事件はそう処理され、世間一般にもそのようにして公表された。

 一時はワイドショーを大きく賑わせた近年稀に見る凶悪な殺人事件も、犯人と思しき生徒が犯行後その場で命を絶ったこと。そして生き残った唯一の女子生徒が錯乱により事件当時の記憶をほぼ失っていたことから、詳細は全くと言って良いほど分からず終い。その為世間の興味もいつしか別のニュースへと移り、真相は闇へと葬られた。


 ……と、それが“私以外”の人が知り得た情報。

 だけど私は、私だけは真実を知っている。あの場でただ一人、生き永らえた私だけは……。

 ……正気を失った生徒による大量殺人? 違う。

 恐慌状態に陥った当該生徒はその後自らの喉を描き切って自殺? 違う。

 生き残った女子生徒は──つまり私は、気絶していたから殺されなかった? 違う!!


 私が、皆を、殺したのに!!


「……ぅう、あぁ…っ、」


 知れず、嗚咽と涙が溢れる。それが決壊の合図だったらしく、ベッドのシーツに顔を埋めてみっともなく泣き喚いた。


 何度だって訴えた。私がやったのだと。それなのに誰も信じてくれない。世間から見た私はあくまで、可哀想な被害者の一人に過ぎないのだ。かわいそうに、そんなに怖かったんだね。もう大丈夫──そうやって的外れな慰めを繰り返す。

 毎日のように悪夢を見ては飛び起きる。真っ赤に染まった両手を震わせて悲鳴を上げる。そして、愚かにも安堵するのだ。今回はただの夢で済んだのだと。


 ああ、いっそのこと頭がおかしくなったのだと精神病院にでも入れられたのならどんなにか良かっただろう。

 そうすれば、そうなれば今こうやって自分の部屋で馬鹿みたいに泣き続ける私諸共、


『──ねぇ、良い加減静かにしてくれないかしら』


 ……“こいつ”も、封じていられるだろうに。


『五月蝿いわ。疑われないようにちゃんと刺し傷も作ってあげたじゃない、何をそう騒ぐことがあるの』


“頭の中で響く声”にギリィ、と歯を食いしばる。そうだ、こいつだ。全部、こいつのせいで…!!


『そのおかげで入院する羽目になったのは誤算だったわ。人間って脆いのね。ともあれ久しぶりの“我が家”なのよ? もっと嬉しそうにしたらどう?』

「……ッ! “チトセ”……あんたが、皆を、殺したのに!?」


 誰もいない空間に向かって激昂する。傍目から見れば私は自分の部屋で一人で喚き散らす異常者にしか見えないだろう。

 だけど、私の脳裏にははっきりとその姿が映し出されている。

 蒼い髪に蒼い双眸。私──こう 千妃路ちひろと同じ容姿でありながら、他者を見下した醜悪な笑みを浮かべて私を睨め付ける彼女……チトセの姿が。

 私が怒りに任せて拳を壁に叩きつけたその瞬間、彼女は途端につまらなさそうに目を細めた。じんじんと痛む右拳。それでも、私の痛みがせめて“私の中にいる”この女にも伝わればと。


『私が? 殺した? ああ、でもそうね……』


 果たしてそれにどれくらいの効果があったのかは分からないけど、さっきまでとは打って変わって退屈そうな声。

 マズい、と思うと同時に自分の迂闊さを呪った。触らぬ神に祟りなしという言葉がある。私にとって、神などではなく悪魔なのだけど。


 それでもいかに最低な理由からだとは言え、折角機嫌が良かったのだから相手にしなければそれで済んだろうに!


『“貸しなさい”。いつまでも中にいるのはうんざりだわ』


 あ、と思った時には遅かった。

 ぐん、と抗えない重力に引っ張られるような感覚に襲われて体が浮く。正確にはそう錯覚する。


「そうやって私のせいだなんだと騒ぎ立てるけど、お前も“私”である事には変わりないでしょう? 千妃路」


 視界がさっきよりも狭くなる。見える景色は寸分違わないのに、もう私の体は私の意思では動かない。


 また奪われたのだ。チトセに、私の体を。


『また、人の体を勝手に……! 今みたいに私の体を奪って皆を殺したくせに!』


 噛み付くように叫んだところで、もう私の声は“外”には聞こえない。そしてそれを向けられているはずの当の本人は、何処吹く風でベッドに腰掛けると小さく欠伸をした。


「……嫌だわ、つまらない。そんなくだらない事をいつまで言うつもりなの?」

『……ッ!!』

「悔しかったら体の主導権を取り戻してみなさいよ、ほら。出来るものなら、だけど」


 嘲り笑う声が私の部屋に、そして私自身に直接響く。


 ──多重人格障害。医者にそう宣告されて数ヶ月が経つ。

 まだ桜の影が残るあの日、私は血溜まりの中に佇んでいた。赤く染まった両の掌、路地裏に倒れ伏す数人の男女が怯え切った目を向けるのは間違いなく私。

 何が起きたのか分からなかった。気が付いたらそこにいて、気が付いたら私の周囲は真っ赤だった。

 引き攣った喉が、全てを理解して悲鳴を上げるその直前で。


『やっと見つけたわ……私の“器”』


 そうして私は、私の中にもう一人の“私”──チトセが存在することを知った。

 正しくはあの日あの時、私の中に彼女が居着いた(寄生した、とでも言うのだろうか?)ことを理解した。

 お医者さんは彼女の存在を私の別人格だ、と言うけれど私にはそうは思えない。この女は“もう一人の私”というよりはただ“私”という個体を依代にしているだけのような……そんな気がするのだ。


 私は彼女に関して詳しくは何も知らない。


 酷く残忍で暴力的であること、そして恐らく人間ではないのだろうということくらいだ。

 先日の事件も私の体を使ってチトセがやったこと。

 皆を殺した後、偽装の為に一人だけを自殺に見せかけてそして他でもない自分自身にもナイフを突き立てた。どうやらそれが原因で何週間も入院する羽目になったのは彼女の言葉通り予定外だったらしいけど……。


 とにかく、そうやってチトセは私の体を乗っ取って好き放題をすることが時々ある。

 初めの内は頻度も少なく、盗られている時間も一瞬だったり私自身が望めば取り返せたりしたものの……最近ではどうにも“チトセ”自身の力が以前と比べて強くなってしまっているらしく、今の私ではもう太刀打ち出来ない。


 私の体なのに、私のものなのに、今やその主導権は突然現れた得体の知れない化け物が握っているのだ。

 ふとした時に考える。もしも、このままどんどん体を奪われている時間が長くなって……そうしたら“私”は、要らなくなった人格は、いつか消されてしまうのではないか──。


「そんな事より、見て? 思念……? ……まぁ、良いわ。ともかく閉じ込めたの」


 私の思いなんて伝わるはずもなく、元凶たるチトセは呑気にタッチ式の携帯を弄んでいた。一応“私”の私物には手を出すなと普段から言っているものの勿論聞くはずもなく──いつも「千妃路の物なら私の物でもあるでしょう?」と不思議そうにする──目を離すと何かロクでもない事を企んでいたりする。

 だけど今チトセが持っているのはどうってことのない普通の携帯電話だった。


『携帯が、何?』

「あら、分からないの? これだから……って、ネイ?」

『ねい?』

「……何だ、いなくなったの。じゃあ良いわ」


 どうやら何かが“居る”予定だったらしい。ただチトセは基本的に私の質問には答えないので、自己完結した挙句に携帯をその辺に放り投げるとベッドに仰向けに転がってしまった。

 基本的にあまり強く詰問すると機嫌が悪くなるし、そういった時に体を盗られていると何を仕出かすか分かったものじゃない。加えて別に彼女が私に何を見せようとしたのかなんて興味すら湧かなかったから、私もそれ以上は何も言わなかった。


 チトセは暫く脚をバタつかせながらベッドの上で転がっていたけど、やがてそうしているのにも飽きたのかいつの間にか寝息を立てていた。

 それに私が気付いた直後、すぅ、と意識が晴れるような感覚と共に体に自由が戻る。


 体の主導権が私に戻ったのだ。未だに仕組みはよく分からないものの、どうやらチトセ自身の意識が無い時は私が望めば抵抗無く体が私のものに戻るらしい。最近のチトセは昼間でも眠っていることが多いので、必要なことはその隙に済ませてしまうようにしている。


 逆を言えば私の意識が無い時は何をされているか分かったものじゃないけど、今となってはどの道私の意思では体を取り返せないのだから知らぬが仏というやつなのかもしれない。


 ある日突然私の顔がニュースで報道され指名手配、だなんて事もあり得なくはないのが現状である。

 そうなれば両親を卒倒させること間違いなしだろう。ただでさえ、チトセのせいで近頃の私の周りでは不審な事件が多く気味悪がられているのだから。


 チトセは家では大人しくしている方だけど、それでもたまに体が奪われる。突如豹変する娘に愛想を尽かしたのかお父さんは長らく出張から帰らず、専業主婦だったお母さんも急に仕事を始めてしまった。


 友達も一度に全員失い、今の私は独りぼっち。

 それも、この手で殺めたのだ。


「ああ、どうして」


 どうして、こんな事に。

 私の嘆きは、応える声もなく部屋に溶けた。


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