第2話 新しい出会い

『ちょっと……! 返してってば! 私はもう学校になんか行きたくない……っ! 行かないの!!』

「不愉快よ。この私に指図する気? お前の意見など聞いていないわ」


 天気は憎らしいほどの快晴。朝、目を覚ますなり体を奪われた私は学生服に着替えようとするチトセを止めるのに必死だった。

 ……あの事件の後、私は当然転校する運びとなった。義務教育すら終わっていない私にとって、そして本来であれば高校入試を控える歳の私にとって、それは必要な事なのだと頭では理解している。

 だけど……。


「何度言ったら分かるの? 私には“血”が要るのよ。お前の生活環境で叶う限りの供物を私に捧げなさい。学校とやらに行かないとこの前のように一度に大量の贄を得られないじゃないの」


 チトセは、どうやら人の血を浴びるごとに力を増幅させるらしい。というよりも本人曰く、本来の力を取り戻していくとのことだが。

 いつだったか酷く上機嫌だった日、自分は封印されたのだと──決して、人間を許さないと。そう語ったことがあった。

 復讐の為に人を殺めるのか、それとも復讐を行う為の力を取り戻す通過儀礼なのか。それは分からないけど、でもどうして私の体なんかで! せめて私の目の届かないところで、私の知らないところで勝手にやっててくれれば良いのに!!


 とにもかくにも、そんな彼女にとって学生という身分は多くの人間と接触する上で好都合なのだろう。

 つまりチトセはまたいずれ多くの人を殺める。それだけは確かだ。

 結局は私の体である事には変わりないのだから、これまでは私が家から出ないようにすればそれで済んだ。だけど何度も言うようにもうチトセは私の手には負えず……あの日も、今日のように。

 私には猶予が無い。これ以上取り返しのつかないことが起きる前に、チトセを何とかしなくては……こんな事、私にしか出来ないんだから──。


「悧巧 千妃路です。よろしくお願いします」


 結局、私が止めるのも聞かずに転入生として新しい学校に足を踏み入れたチトセはぬけぬけとそうやって黒板の前で自己紹介をした。

 前もそうだったけど、彼女はある程度周囲に馴染むまでは大人しくしている傾向にある。

 だから今日いきなり暴れ出すような事はしないだろうけど……それでもいつ体を奪われるかと思うとおちおち気も抜いていられない。

 教室のざわめきを集めながら(妙な時期の転入生だから皆色めき立っているのだと思う)指定された窓際の席に着くと、チトセは小さく口角を上げた。


「……これは、なかなか。……でも、まだ足りない」


 いつかと同じような台詞を吐く。囁くような小さな声だったけど転入初日でクラスメイトに電波認定だなんて目が当てられたものじゃないのでそういうのは心の中で思うだけにしてほしい。


「さて、ここまで来たらもう用は無いわ。返す」


 チトセの宣言と共に私の意識が浮上する。

 ……確かに学校に行かないと喚いたのは私だし、その学校に着いてしまったからにはチトセからすれば用済みなのは分かる。分かるけど。


「……好き勝手言わないでよ、ほんと」


 平穏無事には終わらないであろう事が確定しているこれからの学校生活に目眩すら覚える。

 溜息をついてから窓から空を見上げると、渡り鳥達が青い空を黒く埋め尽くしていた。


 まるで、世界の破滅を予知するかのように。




 そして担任の先生の話もそこそこにホームルームも終わり、現在。


 単調な毎日を送る学生にとって、転入生というのは暇潰しの道具には最適なのだろう。

 それは分かる。理解出来る。だけど……。


「ねぇ、悧巧さん何処から引っ越してきたの?」

「何で転校したの? 家の事情?」

「千妃路ちゃんって呼んでも良い? 良いよね?」


 休み時間になるなり、暇を持て余したクラスメイト達に取り囲まれた私は愛想笑いを返すので精一杯だった。

 皆に悪気が無いのは分かってるけど、こういうのは苦手だ。動物園の珍獣じゃないんだから、そんなキラキラした目で詰め寄られても。

 しかもこういう時は決まってチトセはだんまりだし。厄介事は全部私に押し付けるのがすっかり板についているのだろう。というか、多分さっき交代して以来……寝てる? あの人寝てるよね、絶対。


「あ、あの……授業も始まっちゃうしそういうのはまた後で……」


 とりあえずやんわり、“放っておいてほしい”との意思表示をしてみるけど効果無し。

 皆私に質問してる割には私の話を全然聞いてないらしく、親に餌を求める雛鳥みたいにずっと騒ぎ立てている。

 最早苦笑いしか出来ない私を余所に、新しいクラスメイト達は勝手な盛り上がりを見せていたものの──その終わりは、突然訪れた。


「悧巧さん、あのさ、」

「ねぇ」


 すっ、と。今日の夕食を訪ねるような気軽さで、その声はあまりにも唐突に割り込んできた。


 穏やかなアルトの声は、口を開きかけていた女の子の動きを瞬間的に停止させる。それどころか、見開かれた目は信じられないほどの絶望で揺れていた。

 まるで、蜘蛛の巣に縫い止められた獲物のように。

 一瞬にして凍り付いた空気が、その声の主が異端である事を嫌でも私に突き付けている。


「君達ばっかり転入生ちゃんと話してて狡いな。俺も彼女と喋りたいなぁ、なんて」


 先程までの喧騒が嘘のように静寂が辺りを支配する。女の子達の間を縫って現れたのは一人の男の子だった。


 珈琲牛乳みたいな色の柔らかそうな猫っ毛に、同じ色の瞳。穏やかな笑みを口元に浮かべる彼は人懐っこそうな、何処にでもいそうな人だった。

 それなのに今私の目の前で人当たりが良さそうに微笑む彼が、他でもない氷よりも冷たいこの空気を生み出したのだという事実は変わらない。

 周りの子達──いや、教室中の視線が彼に集中していた。目を逸らすことなど許されないとでも言うように。そしてその視線は一目で分かるほどの恐怖に満ちている。


 今の空気は、異常だ。

 でもそれなら……この人は、何者?


「……構わないよね?」


 弓なりにしなる目を私に向けて、彼は小首を傾げた。

“私”の内側が不自然な脈動を繰り返す。得体の知れない寒気が、私の背筋を走り抜ける。

 何もかも見透かしたような瞳。弧を描く口元。


 水を打ったように静まり返る教室に、椅子が倒れた音だけがわざとらしいくらいに大きく響いた。

 それでようやく、私は自分が無意識の内に立ち上がって椅子を倒してしまった事を知る。


「ひっ、ご、ごめ……なさい……!」

「わた……私達、その、」


 群がっていた子達が尋常じゃないくらいに怯えている。にこにこと笑う彼を見ながら。


 その時、私は彼の笑顔を見てどうしてか蛇を連想した。

 チロチロと舌を伸ばす毒蛇。獲物にゆっくりと近付いて、その牙を突き立てんとするその様を彼の笑顔の影に見た。


「なに? どうして謝るの? ──ああ、でも」


 名前も分からない彼は笑みを一層深くする。綺麗で、わざとらしくて、作り物みたいな笑顔。

 彼は側にいた女の子の髪をするりと撫でる。


「“次”からは、俺がいる時は静かにしていてくれる?」

「ッ!」


 その瞬間、触れられた子はへなへなと床に座り込んでしまった。腰が抜けたらしく、彼を見上げる彼女の顔は紙のように真っ白だ。両目からはぽろぽろと涙を零している。しゃくり上げることすら許されないというように、声を殺して肩を震わせている。


 異様な光景。だけどそれが許される空間。性別に左右されず、ここにいる全ての生徒が彼の挙動を見守っている。

 この一瞬で理解した。


 彼は、この教室の支配者だ。


「あはは、相変わらず可愛い反応するよね、君達」

「あ、の……あなた、は……?」


 震える声を必死に誤魔化しながら彼に問う。喉が張り付いて声が出ないのではと危惧したけど、幸いにもちゃんと言葉は紡がれた。


「ん? 俺? 俺はね、天真てんま 亜砂あさ。悧巧ちゃん……だっけ? よろしくね」


 天真と名乗ったその人はやっぱりにこやかな笑みを浮かべている。握手を求めるように手を差し出されたけど、私はその手を取らなかった。

 幸い気を悪くした様子もなく、彼は猫のような目を愉快そうに細める。


「俺“達”、君のことが気に入っちゃった。良かったら日比谷ひびやにも挨拶してやって。愛想悪いけど」

「……“日比谷”?」


 教室の後ろの端の方……廊下側を指差す彼に釣られてそちらを見遣る。そこでは黒髪の男の子が一人、白けたような表情で席に着いていた。

 彼はこちらの騒ぎは気にも留めていなかったらしく、ぼんやりと窓の外を眺めている。

 彼が全然こちらに関心が無いことに気付いた天真くんは一瞬眉をひそめると彼の方へ行ってしまった。


「日比谷、俺の話聞いてる?」

「話し掛けるな。馬鹿が移る」

「ちょっと、酷くない?! というか日比谷より俺の方が成績良いんだけど!?」

「そういう意味での馬鹿じゃない」


 ぽかんと惚ける私はそっちのけでそうやって二人は暫く言い合いをしていたのだが、私にはその光景が酷く薄ら寒く思えた。


 だって、教室内の空気はまだ張り詰めたままなのだ。それなのにまるで“普通の中学生みたいに”会話を続ける彼らは、私の目から見て異常だった。

 どくどくと鼓動が五月蝿い。だけど音を立てて存在を主張しているのは、本当に心臓?

 まるで、“私”の内側の何かが反応しているかのような。


「…………」


 ようやく私の視線に意識が向いたのか、日比谷と呼ばれた彼はこちらに目をやるとただ静かに笑った。


 微笑んだ、とか。そんなものじゃなくて。


 それよりももっとずっと醜悪な……まるで別人みたいな笑みで。

 まだ彼とは会話すらしていない。それでもさっきまでとは雰囲気ががらりと変わった気がした。

 黒い目に射竦められる。冷えた目は私の体温すらも奪ってしまう。


「……ああ、面白い奴が来たな。亜砂」

「……だろ? 流石は日比谷。俺もそう思うよ」


 彼の笑顔の意味を考えていた私には、そんな二人の会話は届かなかった。

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