第38話 諦める者と諦めないということ

 語る言葉は持たなかった。

 飛び込んできたその影は──湖鷺は、不意を突かれて僅かに動きが鈍った男を勢いのままに蹴り飛ばす。ダガーに頼るのも悪くはなかっただろう。しかし、あの手の武器は通用しなかった際に致命的な隙を生む。

 そしてその読みは正しかった。普通の人間であれば先の攻撃だけで横薙ぎに吹き飛んだであろうが、男は多少よろめいただけだ。

 で、あれば。


「桜華ァ!! やれ!」

「……先に言っておくが、で最後だ。上手く使え」


 ぱちん、と芙蓉が指を鳴らす。おおよそ、たった今窮地を助けられた人間の物言いではないが幸運なことに湖鷺は気にしなかった。その余裕がないとも言えるが、ともあれ、男が完全に体勢を整える前にダガーの柄を男の顔に叩き込む。


(やっぱ怯まねぇ! 殺すのは無理だな……!)


 流れるような動きでその場から飛びのく湖鷺。同時に、芙蓉の腕も引いて自分の背後に押し込めておく。状況が状況でなければ、けろっとしているその様に呆れと安堵の息を吐いたはずだ。ハイヒールも折れてすらいない。「それであんだけ動けるならお前も十分普通じゃねぇな」と毒づき、改めてダガーナイフを握り直す。……もっとも、“ギリギリ”のところであったのは間違いないようだが。眼の調子がおかしいのか、芙蓉は左目の辺りを片手で抑えている。


(これ以上無茶はさせらんねぇな。桜華の能力は暴走したら洒落にならねぇ)


 僅かなタイムラグののち、ぐにゃりと歪んだ影が形作ったのは先程までと同じ芙蓉の姿──ではない。影から生まれたは、無言のままに男へと斬りかかった。


「様子見ながら離れろ」


 返事こそなかったが、彼女が足を引っ張るような真似をしないことはよく理解している。そして自分の身は自分で守るだろう。


 影はあくまでも芙蓉の異能である為、こちらから指示は出来ない。ただその特性は湖鷺も知っている。あれは、敵と見定めた存在を執拗に狙うのだ。

 自分自身と共闘するというのは何とも不可思議な気分になるが、それで手が緩む湖鷺でもない。恐らくは突如湖鷺が二人に分裂したように見えたであろう男は僅かに片眉を上げる。しかし、動きを止めなかったのは男も同じだった。


「一度は外れた死出の道を舞い戻ってくるとは、酔狂なことだ」

「ハッ、悪ィな。閻魔の野郎もあたしみてぇなのはお断りだってよ!」

「よく吠える」


 湖鷺も、その影も同じようにダガーナイフを振り抜く。最小限の動きだけで躱されるが、決して落胆はしない。湖鷺の目的は生き残ることだ。男を殺すことではない。


(三角がいた時も逃げ切れた。隙見て離脱すりゃあ──)


 思考を回せるというのは、それだけ余裕があるということだ。男の動きは目に見えないほどではない。攻撃を弾かれるのは単純に湖鷺の腕力が足りていないからだろう。

 刺し貫くつもりで振るったダガーを素手で制されるのは些かプライドに傷が付くが、瑣末なこと。湖鷺は下らない矜持と命を天秤に掛けるならば断然後者を取る。


 だから。


「……なるほど」


 そんな端的な呟きに鳥肌が立ったのは、やはり、いつだって生存本能に素直に従ってきたからなのだろうと少女は思う。


 存外、つまらなそうに息を吐き、男は「良かろう」と呟いた。


「主君にこのような無礼を働いては困る。の娘で十分だ──貴様は、不要だ」


 それが、人でなきものが人の子へと下した裁決だった。死刑宣告にすらなり得ない、ただの決定事項を口遊んだだけ。地面を這う虫けらを踏み潰す際に、心の準備など要らないのだから。


 直後、彼は思いの外軽い調子でカツンと地面を踏み鳴らした。

 その瞬間に何故か湖鷺の脳裏を過ったのは数日前の光景だ。


『飽きたって言ったでしょう? この私が、いつまでもお前のような者に付き合ってやるとでも思って?』


 ぞわ、と改めて全身が総毛立つ。第六感というのは今のような感覚のことを言うのだろう。

 湖鷺自身も男が攻めあぐねているのは理解していた。というよりも、こちらの品定めをしていたというのが正しいだろうか。

 殺すか、殺さないか。今この時までその天秤が「殺さない」方に大きく傾いていた。恐らくは生きたまま連れ去るのが目的だからだ。だがそれも、他にも「予備」があるとすればどうなる? 


 邪魔者湖鷺を殺し、残り芙蓉を攫う方が遥かに楽だ。


 決断は早かった。今まさに踏み込もうとしていた右脚に力を入れ、全力で飛び退く。

 そして湖鷺がその選択を取るということは、影が同じような動きをするのもまた道理。ほぼ同時に動いた二人の少女を、無機質な藍の瞳が見下ろしている。


 空間を切り裂くような音に本能が悲鳴を上げる。迷う時間などない。湖鷺は自身の影の襟首を引っ掴み男に向かって突き飛ばした、その直後。


 ずるり、と。


 生贄か何かのように差し出されていた影の首が、


 頭部を失った影がくず折れる。本物であればこの瞬間にも血が噴き出していただろう。一歩間違えればそれは湖鷺自身の末路でもあった。影は暫くの間、もがくように蠢めいていたがやがてするすると空気に溶けていった。端から盾として利用するつもりではあった。だがよもや、この刹那の間に使い捨てることになるとは。


 目に入ったのは凶悪に輝く刀身だ。男は赤黒く禍々しい大剣を片手に携えていた。それはまるで、炎のように妖しく光っている。


 一撃で首を刈り取る見事な手腕に、今更背筋が冷たくなる。斬撃が僅かに掠ったのか肩からどくどくと血が流れた。

 明らかにに慣れている。一切の躊躇も無い。

 同じ大剣使いでも芙蓉──正確にはその能力──相手に手こずっていた三角とはレベルが違う。


「何故貴様達人間どもは、餌としての役目すら満足に果たせん。何故貴様達人間どもは──今も昔も、我が主を煩わせる」


 それはあくまでも囁きの域を出ない呟きだった。だと言うのに肌がざわつく理由を考える。

 男の内側からどろりと滲み出るのは昏い感情だ。怒りと憎しみが綯い交ぜになっている。人を虫けらか何かのように思いながらも、そんな負の感情を抱いているちぐはぐさが酷く不気味だった。


 六角の手駒だというのは分かっていた。だが、見誤ったのはその強さだ。所詮は駒のうちの一つ。たかが知れているだろうと。

 或いは、三角があまりに弱過ぎたのか。


 能力のせいか、それともこれまでに生きてきた環境が原因か。それは定かではないが、湖鷺は自身の実力も相手のそれも本能で分かる。だから目の前の存在の理不尽さも分かる。分かってしまう。


 逆立ちをしたって敵わないことも。


(……駄目だ。コイツは、野放しに出来ねぇ)


 狙いは明確に能力者だ。そして湖鷺もよく理解していることだが、能力者は普通の人間と比べて気配が異質だ。例え何百人何千人といる一般人の中に紛れたとして、初めから能力者を探すつもりでいれば容易く見つけ出すことが出来る。

 ここで退けば──別の能力者が殺される。それも大量に。


 正直なところ、ただの人間が何人何千人死のうがどうでも良い。なし崩し的に悧巧に協力しているのも自身に累が及ぶ可能性を考えてのことだ。

 能力者が相手でも、そうやって割り切れたのならどれほど良かったか。三角の蛮勇を嘲笑いながらもこんな真似をしている己の滑稽さに反吐が出る。


 それでも捨てられないのだ。


 全てを失う恐怖を、もう十分に知ってしまっているから。


(だがあたしの攻撃は通らねぇ。これは、)


 ……少女は、なまじが良かった。

 目の前の存在が人ではないだろうという勘。攻撃を受けるかもしれないという勘。殺されるかもしれないという勘。そして──勝てないという勘。

 良い方に左右することもある。その方が圧倒的に多い。だからこそ、彼女はこれまで生き残ってきたのだから。


 でも。


 だから。


(……ヤベェな。死ぬ)


 絶対的な格上を前にした瞬間、彼女の本能は勝利を探ることを諦めた。そんな場合ではないと分かっているのに指先一つ動かなくなる。

 六角の時だってそうだ。六角が銃を構えたあの時、彼女は確かに自身の首が死神の手にかかる光景を幻視した。


「……ほう、やっと身の程を理解したか。もっと早くに命乞いの一つでもしてみれば可愛げがあったものを」


 取り乱して情けを乞うたところで、男は眉一つ動かさずに彼女を殺すだろう。そうした予感だけは確かで、そんな場合ではないのは明らかだというのに笑ってしまいそうだった。このままでは勝利などとてもではないが手が届かず、かと言って逃げることも出来ない。

 だとすれば、やるべきことは一つだけだ。


「……身の程だと? 何のことだか」

「……?」


 男は顔を顰めた。そう、愚かにも動きを止めたのだ。ただ殺すだけであれば、弱者の戯言など聞く価値も無いのに。


「テメェみたく飼い主に尻尾振って媚びんのが身の程ってんなら、あたしはお断りだ」

「…………なに?」


 ──かかった。


 そんな内心を態度に出さないようにしながら、湖鷺は嘲りを顔に浮かべる。この男は人を酷く下に見ている。そして往々にして、格下に嘲笑されるというのはもっとも容易く頭に血が昇るものだ。


「ガタガタ言ってやがるが、お前ら所詮は負け犬だろーが。人間如きに封印されて、恥ずかしくねぇのかよ。それとも何か? ご主人様の命令だから仕方なくってか? テメェも大変だなぁ、無能な主サマに必死で媚び諂って」

「貴、様──」


 激情に任せて叩き斬られればそれまで。そうでなかったとしても、生存の可能性は話にならないほど低い。


 理性というのは偉大だ。思考が出来る生き物というのは、感情に流されやすい。快楽であれ、恐怖であれ、歓喜であれ絶望であれ──時に感情を優先し、誰の目から見ても分かる悪手を選ぶ。そしてそれは時に、大き過ぎる隙を生む。

 目障りなものをひと息に殺してしまうか、それとも。どうせ得るものなど無いのなら、前者を取るのが利口だ。それは目の前の男も分かっているはず。


「同情するぜ。こんなところで油売ってるくらいなら、ロクでもねぇ主サマの頭でもかち割った方がよほど有意義だと思うがなァ」

「……俺の、」


 だがその瞬間、身の程知らずの無礼者への怒りが、男の理性を上回った。


「俺の主を……愚弄したな……?」


 それはこれまででもっとも平坦な声だったかもしれない。何も知らない者が聞けば、それこそ無感情だなどと表現してしまいそうな。

 確かにそこには一切の温度がなかった。それがただ、底無しの憎悪を堪えようとした結果、そう聞こえただけに過ぎないなどと誰が信じただろう?


 ともあれ、である。


 男は今まさに目の前の娘の首を切り落とすべく握っていた大剣。その刃の部分ではなく柄を、少女の腹に叩き付けた。

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