第39話 諦めた者と認めなかった者
正面からトラックが突っ込んできたような衝撃が爆発した。何をされたかを理解するよりも先に身体が地面へと叩き付けられる。
「がっ……」
肺の中の空気が纏めて吐き出され、一瞬、冗談抜きで呼吸が止まった。咳き込もうにもそれだけの空気が残されておらず、ただ口がぱくぱくと動いただけだ。
「ゲホッ、……づっ、ぁ……」
めちゃくちゃいてぇ、ふざけんなと。そんな言葉が脳裏を過ったが言葉にならない。無様に地面に転がったまま意識だけは手放さないようにと歯を食いしばろうとする。
全身が灼熱に焼かれたように熱く、視界が霞んでいる。ようやく呼吸の方法を思い出したその直後、胃液の代わりに粘ついた赤い液体が口から吐き出された。
「……あの時もそうだった。愚かにも人間どもは主君を排そうと……そうだ。何故、貴様らはあの時滅びなかった……?」
ゆっくりと悪鬼が近付いてくる。奇妙なまでに感情が抜け落ちた声が殊更に不気味だった。
湖鷺の狙い通り、彼女の挑発は男の何か深い部分に触れたらしい。誤算だったのは受けたダメージが大き過ぎることだろうか。生存本能が全力でアラートを鳴らしているが、そもそも身動ぎ一つままならない。
「ああ……許すものか人間。主君は連れ帰れと仰ったが……やはり、残らず殺すべきだ……」
ふらふらと歩いてくる男は明らかに焦点が合っていない。言葉は支離滅裂。大剣も構えるわけでもなくズルズルと引き摺っておりある種、隙だらけだ。身体さえ動けばこの機会を逃す理由などない。
(見誤った……六角を相手にした時のダメージが残ってたか……?)
死を目前にしてどういうわけか、彼女は酷く冷静だった。いつかこんな死に方をするだろうと頭の片隅でずっと考えていたからかもしれないし、ただ現実を受け入れていなかっただけなのかもしれない。
顔を上げると、目の前に影が落ちる。藍色の目が金色の少女を見下ろしていた。
「何故……生き残ったのが俺だったのだ」
ゆらりと大剣が振り上げられる。男の放った言葉の意味を考える時間も無い。それでも、目を逸らすことだけはしなかった。
そして──ふわり、と。
花の香りが鼻腔を侵した。
「だからお前は短絡思考のアホだと普段から言っている。ともあれ、これで先程の分はチャラだ」
……普段であれば、きっとその瞬間に怒鳴り付けていただろう。元々、湖鷺がこんな所まで来たのは彼女を逃がす為だった。すぐに姿が見えなくなったから、とうにこの場を離れているものと思っていたのだ。そう思い込んでしまっていた。だから忘れていたのだ。彼女が他人に借りを作ることを極端に嫌うことを。自身の選択によって出る犠牲を、もっとも嫌悪することを。
その少女は──芙蓉 桜華は、当たり前のような顔をして男と湖鷺の間に割って入っていた。
自身の死すら受け入れていた湖鷺の全身から一瞬で血の気が引く。湖鷺自身は多少殴られようが蹴られようが骨が砕けでもしない限りはほぼ軽傷で済む。彼女が無茶な特攻を仕掛けがちであるのもこの辺りに起因する。今回に関してはその慢心の結果として地面に転がっているわけだが。
さておくとして、それ以外の人間は別だ。まして芙蓉の耐久力など見た目通り。
──殺される。
ただ率直にそんな言葉が頭を過ぎる。やめろ、よせと叫ぼうとしたが、大きく咳き込んだだけだ。喉の奥に広がる鉄の味がその警告を掻き消してしまう。
華奢な少女の身体が文字通り真っ二つになる光景を幻視した。
甘かったのか。いや、事実甘かったのだ。化け物とは言え、見た目だけは人と変わらないもの達。それに対して一切の油断が無かったと本当に言えるのか?
その愚かな選択の結果、自分が死ぬのは良い。自業自得だ、諦めもしよう。しかし、そのせいで──自身の選択の誤りで、他者を殺す。それがどれほど悍ましいことか。
もう二度と己の無力さに打ちのめされるような無様は晒すまいと誓ったのに。自身の非力に、決して他者を巻き込まないと決めたのに。
……結局のところ。
芙蓉の選択も、湖鷺の選択も、突き詰めれば同じもの。
どちらも自分のせいで他人を犠牲にするのが許せなかった。ただそれだけの話。
「地獄で悔いるが良い……人として生まれたことを」
男は顔色一つ変えなかった。芙蓉のことも湖鷺のことも纏めて叩き斬るつもりなのだろう。当初の目的をとうに忘れているらしい。
男が大剣を振り抜く動作が、やけにゆっくりと映った。それはただの錯覚に過ぎない。生存本能による最後通告だ。だから、起き上がって盾になることも出来ない。
湖鷺の目に映る黒髪の少女の横顔は、存外、つまらなさそうだった。
「……はぁ? お前が地獄で悔いろ。言い訳を考えるのがどれほど面倒だと思っていやがる、このクソ野郎」
……ん? と、湖鷺が反応するよりも、“それ”は早かった。
「なんっ──」
芙蓉の首目掛けて振るわれた大剣。悍ましい程に禍々しいその刀身が、少女の肉を断つ寸前で、雷鳴のような音が轟く。湖鷺の目には、まるで男が雷に弾かれたかのように見えた。
「ぐっ……がァッ!」
カッ! と辺りに閃光が走る。黄金の光が暴力じみた凶悪さで視界を埋め尽くす。呆気に取られて芙蓉を見上げるも、無傷だ。驚くほど平然として──何故か忌々しげではあるが──彼女はその場で微動だにもしない。
それどころか、驚くべきことに、体を仰け反らせた男の手から大剣が掻き消える。初めから存在などしていなかったかのように、瞬時に霧散する。
「黄、金の魔力だと……!? 貴様、貴様ァ……っ! やはり、魔術師──がはっ!」
衝撃で正気に戻ったのか、はたまた逆に正気を失ったか、泡を食ったように喚き出した男は突然血を吐いて膝をついた。突然過ぎて理解が追い付いていなかったが、よく見れば先程まで剣を握っていた右手も肩から指先にかけて焼け爛れ、傷だらけだ。雷撃を浴びせた後にめちゃくちゃに切り刻まれたかのようだった。その悲惨さを表すように腕からはぼたぼたと血が流れている。肉を焼く臭いが鼻をついて、場違いにも「今日の晩飯に焼肉は食えねぇな」などというくだらないことを考えてしまった辺り、疲れているのかもしれない。
明らかに満身創痍だ。あれではもうまともに動くことも出来まい。男は膝をついたまま芙蓉を睨み付けたが、喉から掠れた息を漏らすだけだ。
「な、なんだ……?」
思わず呆然と呟いてしまったのも仕方がないだろう。本当につい数秒前まで死を覚悟していたのだ。だというのに形勢逆転──どころか、男は小突けばそのまま死にそうなほどボロボロになっている。降って沸いた幸運であるはずだが、何故か素直に喜べない。
それに、能力者の特性は湖鷺もよく知っている。一人の能力者に対し複数の異能は顕現しないし、芙蓉の能力ではあんなことは出来ない。だが、先の現象を起こしたのは彼女で間違いないはずだ。そうでなければ湖鷺のように呆気に取られなくてはおかしいのだから。
きらきらと辺りに金色の粒子が降り注いでいる。黄金の花びらが舞っているかのようだ。美しい光景のはずなのに、何故だろうか、鳥肌が立つほど恐ろしいものを目にしているような気がした。
「……殺すなと日頃から言い聞かせているのが仇になったか。まぁ、構わん。そのザマでは銃弾を掴み取るような芸当は出来んだろう?」
優雅な手付きで少女は拳銃に弾を込める。トリガーを下ろし、銃口が向けられた先には獣のような視線でこちらを射抜く男がいる。どう軽く見積もっても致死の重体のはずだ。芙蓉はああ言ったが、相手が化け物でなければ目の前に転がっていたのは死体だっただろう。
そんな状態でありながら動けないとは言えども敵意を募らせる余裕があるというのは感心にすら値する。
芙蓉の呟きの意味は湖鷺にはよく分からないのだが、どうも心身共にダメージが大きいせいか異能の感度が悪く、芙蓉の考えが読み辛い。能力者同士ではよくあることなので湖鷺も気にしなかった。
殺すのか、などという野暮なことは問わない。ゆっくりと身体を起こした湖鷺自身も、ダガーはきっちりと握り直している。芙蓉がやらなければ自分が手を下すだけだ。
「いっつ……情報は……引き出さなくて良いのかよ」
「この手合いは口を割らん。時間の無駄だ」
問い質したいことが無いわけではない。男の言動にはいくつか気になる点があった。それでもこの男を拘束してまで得るものとそれにより発生するリスクを天秤にかけた時、後者の方が遥かに重い。
「どう、なっている……貴様の、体内には……魔力を感じない……。だと言うのに、何故……!」
男から、激しい憎悪が迸っている。思考までは読めないが、感情は嫌なほどに伝わってくることに湖鷺は顔を顰めた。深い、深い憎しみだ。一朝一夕で生まれるものではない。してやられたことに憤っているわけではないということだ。
どうにも先程の黄金の光に憎しみが向けられているようではある。ただ、男の言葉の意味が湖鷺には半分も理解出来ない。
「やはり、滅ぼさなくてはならない……! 愚かな人間を、我が主に楯突く塵芥を……!!」
その言葉を最後まで聞き終わることなどなかった。不穏な空気を感じ取った芙蓉がいち早く引き金を引いたから──というのも、勿論ある。
だが、撃ち出された弾丸が男の額を貫通することはなかった。
男の身体が、霧のように空気に溶けて消えたからだ。
「……透明化か? いや、これはちげぇな。逃げたか」
咄嗟に透明化の異能の存在が頭を過った湖鷺だが、即座に別の結論に思い至る。
六角に逃げられた時と同じだ。あと一歩のところで及ばなかった。
「トドメを刺しておきたかったが、仕方あるまい。まぁあれでは当分まともに動けんだろう」
……湖鷺としては芙蓉にも聞きたいことが山ほどあるが、彼女の視線が「何も聞くな」と語っている。また、能力者の思考は本人が隠そうと思えば湖鷺の能力でも暴けなくなる。それより何より「こんなことが出来たんなら初めからやれ」と言ってやりたい。やりたいが、芙蓉は効率や損得を重視するタイプだ。初手でしなかったということは出来なかったのだろう。あるいは、やりたくない理由でもあったか。
「あー……」
それに、流石にここ数日は労働過多だ。いくら何でもそろそろ休みたいし、多分下手すると肋骨くらいは折れている可能性もある。身体的な意味では湖鷺はもはや超人の域なので、めちゃくちゃ痛いくらいで行動に支障は無いが。めちゃくちゃ痛いだけで。
よって、結論は一つだった。
「帰るかぁ……」
病院へ行く、という選択肢は無い。
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