第12話 新たに向き合うべきもの

 女の子の泣き声が聞こえる。

 黒く、影のような大きな古城。煌びやかな調度品や白い壁を不気味に照らす燭台の火に囲まれて、女の子が泣いている。

 小さな彼女は何かをしきりに訴えていたけど私にはそれが何なのか分からなかった。


 何がそんなに悲しいのだろう? と私は思う。


 その場所は、望めば何だって手に入るはずだ。

 その地位は、それだけの権力が約束されているはずだ。

 だってそうだろう。

 の振る舞いは、それが許されるのだと知っている。全てを切り捨て、見下してなおそう在ることが認められている。


 だと言うのに、何故彼女は泣くのだろう。


 あんなにも悲痛な声で。

 まるで世界に一人、置き去りにされかのように。


 そこでふと私は思い当たる。

 きっと答えは簡単なことだ。


 そうか、ここには、何も無いのか──。










「……生きてるか?」


 薄目を開けるなり湖鷺さんの顔が飛び込んでくるのはこれで二度目だ。

 疲れた顔をした彼女は、無遠慮に私を見ながら溜息を吐いた。

 一瞬何の話をしているのか分からなかったけど少し遅れて慌てて体を起こす。

 彼女が、私とチトセの意識を切り離す事を試みてくれたのだ。それが原因でまた気を失っていたらしい。


「あの、私……チトセは!?」

「ちょっと落ち着け。その分だと意識が変に混ざったりはしてなさそうだな。……まじで試した事もない力技だったからうっかり殺してねぇかと焦ったわ」


 さらりと恐ろしいことを口走る湖鷺さんだが、うっかり殺しかけたという点ではチトセのせいであまり人の事を言えないので口を閉ざす。というか、本当に一歩間違えれば湖鷺さん達の命を奪っていたのかもしれないのだ。チトセが思いっきり彼女達を見くびっていたのが功を奏したとも言える。


「あいつはどっか行っちまったよ。良かったのか悪かったのかはあたしには分かんねぇけど、とりあえずお前の体はお前のもんだ」


 掴みかかられた時にマイナス感情を抱いたことを猛省する。

 振る舞いは苛烈だけど、この人は多分ものすごく良い人だ。


「こさぎちゃん口悪いだけなんだよね。意外とお人好しなの」

「その子、素直じゃありませんしね」

「素直じゃないのは姉妹揃って、って感じがするけどねぇ」


 つい先程まで死人が出そうな騒ぎだったのに雲雀さんとツバメさんは視界の端でじゃれついている。

 信じられない切り替えの早さだ。それとも呆気に取られている私がおかしいのだろうか。

 私は目を閉じて、本当にチトセがいなくなったかを改めて確認する。

 彼女が私の中にいた時は、いつだって得体の知れない怖気が内側に存在していた。まるでじわじわと体の端から毒に侵されていくような……そんな気味の悪さが全身を蝕んでいた。


 だけど今はそれが感じられない。


 ああ、まさかこんな形で解放される日が来るだなんて……!


「湖鷺さん、あの……ありがとうございました、本当に!」

「こっちも生きるか死ぬかの瀬戸際だったしな。生まれて初めて能力者だって事に感謝したぜ……」


 その言葉で私は気になっていた事を思い出す。

 路地裏でチトセと対峙した時の雲雀さんや、他でもない私とチトセを分離するだなんて冗談みたいな事をやってのけた湖鷺さん。

 今思えば、湖鷺さんが絶妙なタイミングで私の疑問に答えてくれたのは心が読めるからだったのだろう。だとすればこの人達は一体何者なのだろうか。


「……まぁ簡単に言うと超能力者だな。夕凪はそういうのじゃねぇけど」

「超能力者!? 雲雀さんと湖鷺さんがですか!?」

「あー、なんかそういう反応見るの久々だわ……。思えば夕凪が馴染み過ぎなんだよな」


 超能力者。凄い、まさか実在するなんて!

 よく考えれば私も意味が分からないものに寄生されていた訳だし、その元凶が魔術師がどうこうみたいな話をしていたような気もするけどこうして目の前にするとまた話が違う。


 私が凄い、凄いと何度も繰り返していると湖鷺さんは何故か眩しいものでも見るかのように目を細めた。


「そうはしゃぐなよ。お前が期待するほど珍しいもんじゃねぇし……それに」

「え?」

「後悔するぞ。人の事言えねぇけど能力者は癖が強い奴ばっかだしな」


 険しい顔つきになってしまった湖鷺さんは額を押さえて呻いている。どうも含みがある言い方だ。それにその物言いだと能力者とやらが他にも近くにいるかのような……。


「つーかよぉ、そもそもお前ら何なんだ? 成り行きで今こうなってるとは言え、あたしには事情がさっぱりなんだが」


 お前ら、という湖鷺さんの言葉に私は重要な事を思い出す。てっきり私とチトセを指しているものかと思ったが、あれきり日比谷くんが気絶したままなのだ。今もなお雑に床に転がされている。胡散臭そうに彼を見る湖鷺さんは「どうしてもロープが見つからなくてよ……」というよく分からない事を呟いていた。

 まさかいつの間にか死んでしまったのではと慌てて体を揺さぶったところ、呻き声が上がったので胸を撫で下ろす。


「あの、説明は後でしますから。図々しいお願いなんですけど彼も何とかしてあげられませんか?」

「あー……」


 私の言葉に、何故か湖鷺さんはすごく言い辛そうな顔をした。

 叶うならシノと日比谷くんも引き剥がしてあげてほしい。やっぱり強引な力技だったって話だし、とてつもなく疲れてしまうとかなのだろうか。

 だとすれば出会って数時間と経たない彼女にこんなお願いは心苦しいけど、私だけチトセとおさらば出来て良かったですねというのはあまりにもあんまりな話だ。少なくとも、日比谷くんのことを考えると。


「その、彼も私と同じで。精神の切り離しってものが大変だってことは分かってるんですけど!」

「いや、あのな悧巧」


 どうかお願いしますと、そう言い終わる前に日比谷くんが緩慢な動作で上体を起こした。私がすぐ近くで大きな声を出したせいで意識が戻ったのだろう。


「……悧巧? 何処だ、ここ……」

「日比谷くん! 良かった、気が付いた……!」


 さっきまで何かを言い淀んでいた湖鷺さんは、それを見て観念したように息を吐いた。

 彼女は天井を仰いだ後、金の瞳を私達に向ける。


「あたしはお前らの事情は知らねぇ。だけどまぁ、何の悪さもしてねぇただの一般人にロクでもない代物が取り憑きやがったって事だけは理解してる」


 彼女は美しい顔を歪める。それは世の中の理不尽を許せないとでも言いたげな怒りに満ちた表情だ。


「その上で言うが、悧巧と違ってそいつの分離はあたしにはどうしようもない。出来ねぇ」

「そんな! どうして!」


 隣にいる日比谷くんの顔色が変わったのが分かる。現状を理解する事に割いていた意識を、湖鷺さんに向けたのだろう。

 湖鷺さんは大きく舌打ちするとこう言った。


「一つの器に宿る二つの魂は、時間が経つにつれて溶けて混ざり合う。同化……とでも言えば良いのか? 本来人間の体は魂をいくつも溜め込んでおけないんだよ。だから二つの内どちらかは砕かれて片方に取り込まれ、やがて消滅する」


 息を呑む音が聞こえた。それが日比谷くんのものだったのか、私のものだったのかは分からない。


「悧巧はもう一つの方とほとんど混ざってなかった。水と油が反発するように、綺麗に分かれてた。だから多少強引にでも分けられたんだがな。……でもそっちのお前は駄目だ」


 湖鷺さんは冷たい目で日比谷くんを見る。憐れみの視線を向けられるよりは良かったのかもしれない。だけどそれがどれほどの救いになると言うのだろう。


「お前はほとんど混ざり切っちまってる。そんな状態で“切り離し”を行えば、引き裂いた影響でお前の意識もバラバラにしちまう。そうなれば、死ぬ」


 だから無理だ。湖鷺さんははっきりとそう口にした。

 その言葉に心臓が冷える。呼吸の仕方が突然分からなくなる。

 分離を行えば死ぬのだと彼女は語る。だけど、このままだと。


「当然、消える方の意識……ううん、魂は……」

「俺の方だろうな。ただでさえもう自分の意思じゃ体を取り戻すことさえ出来ないんだから」


 蒼白になる私とは違い、彼の言葉は何の感情も篭っていなかった。

 悲しみも絶望も、怒りさえ感じられない声色。激情を押し殺してるわけじゃない。そこには、本当に一切の温度が無かった。

 そんな日比谷くんを見下ろす湖鷺さんは一瞬目を見開き、そして顔を逸らす。

 私も堪らずに顔を伏せた。


「そんな顔するな。ある程度予想はしてたからな。……それより、悧巧はチトセがいなくなったんだな」


 もう自分の事など興味が無くなったかのように、彼は穏やかな目で私を見た。

 今日という一日を一緒に過ごして、初めて知る。彼がこんなにも優しい目をする人なのだということを。

 その優しさが痛かった。同じ立場であったはずなのにもう口出しする権利が無いのが歯痒かった。

 今の私が、解放されてしまった私が何を言ったところできっと彼を傷付ける。


「俺は良いんだ。……どうせ、生きる資格なんて無かったんだから」

「……日比谷、くん?」


 発せられた言葉の意味が私には分からない。

 一瞬、頭の奥がずきりと痛んだ気がした。まるで何かを訴えかけるように。

 だけど聞き返すようなことも出来なくて、ただ口を噤む。


「それより、同化……だったか」


 話は終わりだと言わんばかりに、日比谷くんは湖鷺さんを見上げた。

 彼は険しい表情で、


「片方の意識はやがて取り込まれて消滅する、と。あんたはそう言ったが、それには自覚症状があると思うか?」

「……知るかよそんなもん。あたしは別にそういうのの専門じゃねぇ」

「そうか……でも、それならやっぱり……」

「日比谷くん、どうしたの?」


 難しい顔で黙り込んでしまった日比谷くんに控えめに声を掛ける。

 彼は私の顔を指差すと、「それだ」と呟いた。


「……俺は、あまり自分の苗字が好きじゃない」

「あ、そうなんだ。ごめんね、名前で呼んだ方が良い?」

「え、うん……いや、そうだけど今はそうじゃなくてだな悧巧」


 首を傾げる私に、彼は言い辛そうに顔を背ける。

 突然何の話を始めたのだろうと思ったけど、そこで私はふと思い出す。

 そういえば、天真くんは彼のことを……。


「そうだ。当然、亜砂もそれは知ってる。……ほんの半月程前まで、あいつは確かに俺を“扠廼”と呼んでいたんだ」

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