第29話 怖くなかったはずがないのに

 扠廼の動きは酷くゆっくりに見えた。それが私の錯覚なのか、本当に緩慢な動作だったのかはよく分からない。

 ただ一つ言えるのは、ネルが発した警告の意味を理解するのが遅過ぎたということだけ。


 人は、身構えていなければ大抵のことに対処出来ない。


 だから、あまりにも呆気なく──天真くんは、


「あ……」


 思わず、後ずさる。悲鳴すら上がらなかった。私の喉も、張り付いたみたいに口の中が干上がってほとんど言葉が出てこない。


 何で。なんで扠廼が、そんな。だってさっきまで。いや、違う。違う、分かってる。動揺するな、分かってる、分かっていたことでしょう!?


 っ、だから!!








「湖鷺さん!!」

「おうよ」


 軽やかな声が鼓膜を叩く。それと同時に何処からか金色の影が飛び出して、をぼんやりと眺めていた彼に飛びかかった。

 こちらを意識させては、反撃される。チトセの時の教訓を生かし、その影は即座に扠廼の──扠廼の身体を奪ったシノの側頭部をナイフの柄でぶん殴った。

 アキハの時と同じ。彼らの身体は彼らが宿主と呼ぶ人間のものだから、人体の急所への攻撃はそのまま通用する。


 シノはあっさりと崩れ落ちて、長い黄金の髪の毛を靡かせたその人は舌打ち混じりに振り返る。

 不機嫌さを隠そうともしない湖鷺さんは扠廼の身体を蹴り飛ばそうとして、辞めた。


「こ、湖鷺さ、したっ、あの」

「大丈夫だ。見ろ」


 私の代わりに下を見てください。心の準備が出来てないから。そう言おうとした私の腕を容赦なく引っ張り、湖鷺さんは無理矢理フェンスの向こう側を覗き込ませた。


「よ、よく見えない……」

「ああ? お前どんだけ目悪いんだよ。ちゃんと生きてるよ、さっきの奴。姉貴が能力でみたいだからな。落ちてくるもんキャッチするのは妙に上手いんだからよぉ……」


「まさか自分で落ちてくるんじゃなくて落とされるとは思ってなかったけどな」と続けて、湖鷺さんはナイフをくるくると回して弄ぶ。……十階まである高さの建物の屋上から地面がどうなってるかは常人にはよく見えないのが普通だと思うんですけど。




 ──ここへ向かう最中のこと。


 私はツバメさんと連絡を取り合いながら、もしもの可能性についての話をした。

 ネルの妙に確信めいた、「絶好の高さ」という言葉が不気味だったのもある。とにかく、天真くんが飛び降りるつもりかもしれないと。


『こさぎちゃんにはね、その人を見た時にお願いしておいたから……来てくれると思うよ?』


「授業中だったから怒ってたけどね」とツバメさんは言っていた。後でめちゃくちゃ謝ることは確定だとして、彼女は不穏な気配を察知して初めから湖鷺さんを呼んでくれていたらしい。

 案の定、途中で連絡をくれた湖鷺さんは怒り心頭だった。


『お前ら自分の立場分かってんのか!? なに当たり前みたいな顔で外を彷徨いてやがる!! 学校なんて行ってる場合じゃねぇだろうが、アホか!!?』


 ……それに関しては返す言葉もない。言い訳はさせてもらいたいけど、チトセと同じでシノ達も一定のルーティーンを守って生活した方が比較的大人しいみたいなんだもの。

 学校という箱庭の、学生達という“餌”をチラつかせていた方が。勿論、少し前のチトセみたいに突然あらゆる生徒を害して回る可能性はかなり高い。だけど結局のところ、それは場所が何処であろうと同じことだ。


 私はネルを通して彼女達への伝言を頼んだ。

 雲雀さんとツバメさんには、建物の外周を見て回ってほしい。人影が見えたならその真下で待機してほしいと。


 湖鷺さんには、念の為──本当に念の為に、私達の後ろにこっそりついてほしいと。


 シノとテンリが表に出てこないのは出てこられないからじゃない。静観しているだけ。そう仮定すると、いつ何が起きるか分からない。そして私には、彼らを止める手段が無い。

 不意を突けば気絶くらいならさせられることはアキハの時に学んだ。私には無理でも、湖鷺さんならそれが出来る。


「いいや、なんか悪かったな。入れ替わる前兆はんだが、割って入れなかった。落ちた方にも悪ィことしたな……」


 お礼を言うと、湖鷺さんはひらひら片手を振りながらそう言った。機嫌が悪そうだったのは良いように使われたからじゃなく、自分を不甲斐無いと思っていたからみたいだ。


 そうは言うけれど、シノが扠廼と代わった瞬間に止めに入っていれば、シノは確実に湖鷺さんに気付いただろう。どうせ私のことなんか舐め切っているだろうから元から眼中になかったとして、湖鷺さんの存在がバレるとその瞬間に不意打ちが不可能になる。そうなったら絶対に無事じゃ済まなかった。


 ああ、この人達がいてほんっとうに良かった……! 


「とりあえず、こいつもふん縛って連れてくぞ。つーかお前ら、マジであんま動き回んなよ。トラブルが起きても対処出来ねぇだろうが」


 ぶつぶつ文句を言いつつ、湖鷺さんは携帯電話を操作し始めた。

 今は気絶してるけど、扠廼大丈夫かな……。あの流れでシノが天真くんを突き落としたの、完全にトラウマになるんじゃ……。


「まぁ皆が皆お前みたいに図太くねぇしな」

「私の何処が図太いんですか。こんなに繊細なのに」

「そういうトコだろ。……あー、おい姉貴。一応確認なんだが、落ちた奴無事だよな?」


 そういうトコってなに?

 釈然としないままでいると、湖鷺さんは通話を始めてしまった。会話の流れ的に雲雀さんだろうけどちょっと不穏な言葉が聞こえてきてひやりとする。


「いや、姉貴のことだから空中で上手いことキャッチ出来ても下ろす時に落としたりしてねぇかなと思って。あん? 生きてるのは分かってんだよ。五体満足か聞いてんだっての」


 くぐもっていて少し聞こえ辛いけど、「ちゃんとしました」「こんな事しに来たわけじゃないのに」「湖鷺はいっつも私を信用してない」とお怒りの雲雀さんがヒステリックに騒いでいるのが分かる。

 ……後で雲雀さんにもちゃんと謝ろう。怖いけど。

 話を聞くに、昨日も今日もツバメさんとの約束を私達が台無しにしたみたいだし。


「呆然としてる? そりゃするだろ。この高さから落ちたんだぞ。姉貴じゃ話になんねぇわ。夕凪に──」

「湖鷺さん、雲雀さん、あのっ! 出来れば天真くんに代わってもらえませんか……?」


 やっぱり確認しないと安心出来ないから。

 それに、扠廼に突き飛ばされたと勘違いしている可能性もゼロじゃない。

 そんなことになれば今度こそ二人の関係は取り返しがつかなくなる。


「……だとよ。代わってやれよ。話が終わったら夕凪とどっか行きゃ良いだろ? はぁ? ちょっとなんだから良いだろうが。交換条件だと? 何でンなことしてやんなきゃいけねぇんだふざけんな。つーかうるせぇわ。あたしは甘いもん嫌いなんだよ。行くわけねぇだろ」


 電話の向こうからでも不満そうな気配は伝わってくる。人に携帯貸すの嫌なのかな。なんかずっとぴぃぴぃ言ってて小鳥みたい。


「しつっけぇんだよ! おい、聞こえてんだろ夕凪!? 馬鹿姉貴何とかしろ!! お前の役目だろうが!!」


 結果、湖鷺さんがブチ切れる方が早かった。


 完全に駄々っ子と化していた雲雀さんは、恐らくツバメさんに説得されたようで渋々天真くんに携帯を渡してくれたらしい。それに合わせて、湖鷺さんも携帯を私に放り投げる。……本当に後で絶対謝ろう。三人ともに。


「……あの、天真くん……?」


 大丈夫? と声を掛ける。普通に考えてこの高さから落ちたらあらゆる意味で大丈夫ではないけれど。

 僅かな時間で色々あり過ぎたけど、そもそも天真くんの体調が悪かったのは事実だ。ショック死とかしなくて良かったとも思う。


『……ふ、ふふ……』


 私の問いに答えはなく、電話の向こう側から聞こえたのは噛み殺すような声。一瞬、思考に空白が生まれる。それは震えているけど、恐怖のあまり……みたいな感じには聞こえない。


 えっ、ちょっと待ってもしかして笑ってる? 何で? ウケるポイントあった?



『ふ、ははっ! あっはははは!!』



 混乱のあまり二の句が継げない私をよそに、携帯からは大爆笑が響き渡る。

 いや怖いって! なに!? もしかしてやっぱり頭打って変になった!?

 思わず携帯を顔から遠ざけると、そこでやっと別の可能性が頭に浮かぶ。もしかして、天真くんじゃないんじゃ──


『ははははっ! あー、死ぬかと思った!! めっちゃくちゃ怖かったんだけど!! 悧巧ちゃん聞いてよ! 俺さ、さっきまで死ぬつもりだったんだよ!? でもこんな怖いって分かってたらやらないって! やーめたって言ってんのにシノの奴、俺のこと突き落とすし「これ死んだわ」って思ったらなんか落ちてる途中でぴたって止まるし、そのままゆっくり地面に降りられそうだったのに最後はどさって落ちて背中痛いし!!』


 呆気に取られる私を気にも留めず、天真くんはその後もずっと何事かを捲し立てていた。どうやら混乱のあまりハイになっているらしい。テンリかと思った、無駄に心配させないでほしいと文句を言おうとして……思うだけに留めておく。

「本当に死んだと思った」「酷い目に遭った」と彼が何度も繰り返す中、一つだけやけに印象深かったのは次の一言だった。


『……椎做もこんな思いしたのかなぁ』


 その呟きへの答えを私は持たない。

 世界中を探したってそれを知る人は見つからない。

 まるでさっきとは別人みたいに、今にも泣き出しそうな弱々しい声だった。彼が笑いたいなら笑えば良い。泣き出したいなら大声で泣いて喚けば良いと思う。


 それで、少しでも心の澱みを吐き出せるのならそうすべきだ。


 自ら飛び降りようとしていた時の彼だって──本当は、怖くなかったはずなんてないだろうから。



 時間にしてはほんの少しの間だったと思う。天真くんが落ち着くのを待って、私達は合流することにした。一息つきたいのはやまやまだったけど、根本的な問題は何一つ解決していない。

 昨日のうちに天真くんとすぐ情報共有をしなかったのも原因の一つではある。天真くんは湖鷺さんとなのだと言っていた。

 憶測には過ぎないけど、今朝あの形で諸々を伝えられたことで隠し事をしようとしたように感じ取った可能性は高いと思う。


 ともあれ気を失っている扠廼は湖鷺さんが軽々担いで、下に降りることになった。

「姉貴にキャッチさせるから飛び降りるか。その方が早いし」とか言い出した湖鷺さんについては、恩を感じていなければ思わず殴っていたかもしれないのはここだけの話。……まぁ、考えてることは全部筒抜けだろうけど。


 それでも改めて思う。

 湖鷺さん達がいなければ、


 今更になって全身がぞわぞわと総毛立ち、息が苦しくなる。


 シノは、天真くん──もしくはテンリ──に殺意があったわけではないと思う。本当に何の気なしに、気紛れで突き落としただけ。

 言葉通りに、“器”たる人間が死ねば寄生している側がどうなるのか──ただそれを確認する為だけに、扠廼の身体を奪った。


(……やっぱり、そう。確信が無かったからしなかっただけ)


 賭け金は自分の命だ。リスクが高過ぎる。そして天秤に代わりに乗せるものが自分の命でないとすれば、シノは一切の躊躇無く引き金を引くのだということ。


(天真くんには偉そうに啖呵を切ったけど……これ、詰んでるんじゃあ……?)


 ──開き直ってシノとテンリが殺し合いでも始めたら、私達には止められない。










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