第28話 選ぶということ
何度も何度も、立ち止まりそうになる扠廼に声を掛けながら走る。心臓が破れそうなくらい痛くて、ちゃんと息を出来てるかも分からなくて──でも!
(こんな形で終わっちゃうなんて絶対にやだ……!!)
ボロボロの廃墟と化した件の病院。こんな時じゃなければきっと怖がって入ることも出来なかったと思う。
埃まみれの床に、真新しい足跡を見つけて息を呑んだ。やっぱり、来てるんだ。
焦燥が身を焦がす。さっきのネルの言葉が何度も頭の中で繰り返されていた。杞憂で終われば良い。二人して、そんなに慌ててどうしたのって。そうやってへらへら笑ってくれれば構わない。
──とにかく、上へ!
そのつもりなら、きっと一番高い所を選ぶ。靴跡も階段の方へと続いている。迷うことなく真っ直ぐと。
扠廼に声を掛けようと振り返ると、彼は真っ青な顔のまま私を追い抜いた。元々、当然のように扠廼の方が足が速い。慌てて後を追いかけても、階段を駆け上がる背中はどんどん遠くなっていく。
「ネル! さっきの、伝えてくれた!?」
《はい、千妃路様! 私を誰だとお思いですか!? チトセ様の優秀な配下でございます!》
「ああ、そう、ありがとう! それあんまりアピールポイントに適してないから!!」
ネルに悪態をつきながら階段と踊り場を交互に走り上がる。十階建てって言ってたよね……!? めちゃくちゃキツいんですけど……!!
うんざりするほど続く階段に挫けそうになった時、扠廼が天真くんを呼ぶ声が聞こえてきた。顔を上げると、大きく開け放たれた扉が目に入る。着いた、屋上……!
「亜砂……馬鹿な真似は、よせ」
扠廼の声は震えていた。予想していた通りの光景が広がっていても、受け入れることは出来なかったのだろう。ただそこに立ち尽くして、足が縫い止められているかのように動けないでいる。
私達の視線の先。
錆びたフェンスの向こうにいるその人は、ぼんやりと空を見上げている。あと半歩でも踏み出せば、飲み込まれるみたいにして落ちてしまう。
「……馬鹿な真似? 本当にそう思う?」
怖いくらいに落ち着いた声が、耳に届いた。まるで私や扠廼の反応の方がおかしいみたいに、振り返った彼は穏やかな表情を浮かべている。世間話を始めるくらいの調子で、天真くんは笑った。
「これが最善だよ。日比谷だってそう思ってたじゃんか。こいつを道連れにするには今しかない」
そう言って彼は自分の胸元を掴む。悲壮な覚悟を努めて明るく口に出す。
……私だって、一時期は毎日のように考えた。このまま死ぬのが世の中の為なんじゃないかって。それは簡単に辿り着いてしまう結論であり──もう誰も傷付けずに済むという希望でもある。
「今が最期のチャンスだ。日比谷は気付いてるだろ? 俺がもう、ちょっとずつ俺じゃなくなってること。そう遠くないうちに……俺としての意識は消えてなくなる。だから、これで良いんだ」
扠廼の口が何か言おうと動く。でもどうしても言葉にはならない。
天真くんも扠廼も、辿る未来も選ぼうとした答えも同じだから。だから、扠廼は天真くんを説得する言葉を持たない。
また、心臓と頭が痛い。分からない。まるで何かに責め立てられているみたいに耳鳴りがする。
……何か、間違ってるの? さっき、扠廼を叩いた時もそう。何か得体の知れない衝動が私を急かす。
「そうだ、これで良い──こうすればもう日比谷を傷付けることもない。俺なんか、最初からいない方が良かったんだから」
「………………は…………?」
辛うじて口から出たそれが私のものだと、気付くまでに少し時間が必要だった。
ずきずきと頭が痛む。目の前がチカチカ光っているせいで、思考が全然纏まらない。
「なに、それ……扠廼を、傷付けたくないってこと……?」
胃の中が気持ち悪い。部外者の女が口を挟んだことに驚いたのか、二人は揃って私を見た。天真くんにおいては、初めて私の存在に気が付いたみたいに。でも、そんなのどうでもいい。
「間違ってる……そんなの……! あなたが死んで、扠廼が傷付かないはずないでしょう……!? 私でも分かるのに、そんなことも分からないの!?」
頭の中に手を突っ込んで、直接かき混ぜられているみたい。勢い任せに放った言葉の意味を、自分で理解するのも難しい。視界がぐるぐると回っていて、口だけが勝手に動いているかのよう。
「っ、それに! 肝心なことが一つある……っ! 天真くんが死んでしまったとして、テンリも死ぬとは限らないんだよ!?」
今朝から、不気味なほどに彼らは沈黙している。同化の影響で調子が悪いから。そうやって片付けていたけど、それにしたってやっぱり静か過ぎる。人間でもない彼らが全く身動きも取れないほど体調がおかしいのなら、天真くんも扠廼も歩き回れるはずがない。
そう、まるで──待ってるみたいに。
「……チトセは、私から解放されたがってた」
力は十分戻った、だけど出られない。彼女はそうぼやいていた。チトセにも計算外なことに、私の身体は檻の役目を果たしていた。
そして檻から出る為に、湖鷺さんによる“分離”に抵抗を見せなかった。
「テンリもシノも、多分あなた達がそれを選ぶのを待ってる」
身体の持ち主が、自らの意思で檻を壊してしまうことを。身体の制御を奪って自殺しようとしない辺り、何か制限があるのかもしれない。もっと言えば私の考えが根本から間違っている可能性もある。
だけどやっぱりこんなのは違う。
「時間が無い。それは分かってる。でも、もう一回考えようよ。昨日の時点で手掛かりはゼロだったのに、チトセ達が何なのか分かった。引き剥がすことだって出来た! 湖鷺さんのやり方じゃシノとテンリは駄目でも、他の方法があるかもしれないでしょう……!?」
安全地帯から吐くこの言葉の狡さは私が一番よく理解している。
でも昨日、決めたの。どれほど身勝手でも我儘でも、私は私なりの最善を選ぶんだって。
軽蔑されたって構わない。甘いことを言うなって掴み掛かられたって良い。人間を馬鹿にして見下しているあの怪物達の、思い通りにならなければそれで良い!
「──皆で、一泡吹かせてやるの。人の命を弄んで踏み躙る連中に」
天真くんが目を瞬かせる。ぱちぱちと、奇妙なものでも見るかのように。
私はまだ彼のことを何も知らない。勿論、扠廼のことだって全然。
だけど二人が、互いを思い合っていながらもすれ違っているのは知っている。焦ったいことこの上ないので、私はだんまりを貫いている扠廼の背中を突き飛ばした。
「扠廼も! 天真くんに言うこと、あるでしょ!?」
「いや……でも」
「でもじゃない!」
いつの間にか気分の悪さは引いていたけど、ついつい金切り声を上げてしまう。腹が立ってるわけでもないのに声を荒らげてしまったのはもうここまできたら勢いで押すしかないと思ったからだったりする。
さっきまで目を離したら自分から飛び降りてしまいそうだった天真くんも、私がごり押しで片付けようとしているのに気付いたのか困ったような苦笑いを浮かべていた。
「……亜砂、その……ごめ、」
「謝んないでよ。俺こそ、八つ当たりしてごめん」
ふらふらとフェンスに近寄っていく扠廼の言葉を、天真くんが遮る。ボロボロのフェンスはところどころ朽ちていて、大きな穴になってしまっている場所もあった。
「なんか、馬鹿馬鹿しくなっちゃったよね。恥ずかしくなってきたっていうか……勝手に一人で盛り上がってたみたいな……」
言葉通りに本当に恥ずかしそうに彼は顔を背けた。……なに? もしかして私が喚いてるの見て冷静になったってこと? 何だコイツ盛り上がっちゃって寒い奴だなみたいな?
やめてほしいんですけど。一応、大真面目ではあったんだから。
「俺さ、昔言ったじゃん? 約束……破らないでって」
「……ああ」
「嘘をつかないでねって……日比谷はずっと守ってくれてるのに、俺が守らないのはやっぱフェアじゃないよね」
へら、と天真くんは気の抜けたように笑った。椎做ちゃんの話の時に少し聞いたけど、天真くん達は約束をしたらしい。
扠廼は、彼に嘘をつかないと。
そして天真くんは、死んだりしないと。
椎做ちゃんの死を互いに自分のせいだと考えていた彼らにとって、それは必要な約束だった。
そうやって縛り付けておかないと自分の足で立っていられないくらいに。
「そっちに戻るよ。それで、もう一回ちゃんと話そう」
フェンスの前で項垂れている扠廼を宥めるように天真くんは声を掛ける。扠廼の表情は見えないけど、何となくどんな顔をしているのかは分かる。
……やっぱり私、微妙に場違いだよね? それとなくフェードアウトした方が良いかな。でもこの流れでいなくなるのってそれはそれで意味分かんないしな……。何しに来たんだよってなりそう。
カシャン、と天真くんが錆びたフェンスに手と足を掛ける。明らかに経年劣化が進んでいるそれは、突然崩れたりしそうでちょっとヒヤヒヤする。
「ああ、だが……やはり一つ、確認しておきたい」
囁くような声色は、扠廼のものだった。それだけなのに酷く通って、どうしてか一瞬だけ背筋が冷たくなる。陽の光がこんなにも照り付けているのに、寒い。
訝しむように動きを止めたのは天真くんも同じだった。
直後、手の中に握り締めたままの携帯電話からけたたましいアラート音が鳴り響く。
「えっ、なに──」
《いけません千妃路様! 一角様をお止めください!!》
悲鳴のようなネルの声が屋上いっぱいに響いたのと、
「器を壊せば中身はどうなるのか、お前で試そう。なに、上手くいけば解放されるぞ──五角」
フェンスに空いた穴から腕を出して、扠廼が天真くんを突き飛ばしたのはほぼ同時だった。
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