第10話 激情
……いつからだったか、ずっと前から私の中で燻る感情がある。
何がきっかけだったのか、いつからそんな感覚を覚えたのか私には分からない。
だけどそれは、ふとした瞬間に顔を覗かせるのだ。
──このまま、見て見ぬ振りで良いの?
構わない。
だって、これは私が望んだものだから。
私は平穏に暮らせればそれで良いの。他には何も要らない。
抗うのは嫌。苦労して、運命に逆らって、結局挫折してしまうのは嫌。
だから最初から目を背けていたかった。
どれほど眩しい運命も未来も、知らない振りをして終わらせてしまいたかった。
この感情が、いつの記憶に基づくのかなんて私は知らない。
だって、知ってしまったら。
きっと──私が私でなくなってしまうだろうから。
ゆら、と視界の端で動いた影に気が付いたのは私よりもチトセの方が先だった。私の言葉に言い返すのをやめ、チトセはその人へと向き直る。
「……あら。てっきり
「冗談じゃねぇ。あたしはお前みたいに高慢な女が世界で一番嫌いなんだよ」
そうやって薄ら笑う湖鷺さんが手の中で弄んでいるのは、何の変哲も無いただの鋏だ。チトセが彼女から奪ったナイフよりも遥かにチープで心許ない。
だけど彼女は逃げる様子もなくそれを構える。
「つーわけで、ちょっとあたしと喧嘩しろよ。……一対一でな」
挑発するかのように彼女は口角を上げた。
彼女の金の瞳に絶望の色は無い。かと言って、恐怖が浮かんでいないわけでもない。
こんな事を考えている場合じゃないのは分かってる。それなのに、どうしてか私はその姿が酷く眩しく思えた。
だって、私には出来ない。
きっとこれまでだってもっと私が本気になれば──それこそ私自身が死を選んででもチトセを止めようとしていれば──防げる悲劇はいくつもあったのだろうと思う。
チトセには彼女自身の体が無い。だから私がこの世からいなくなれば、チトセにはどうしようもなかったはずだ。
そんな事はずっと前から分かっていた。分かっていたけど、立ち向かうのは嫌だった。
だって、これは私が選んだ人生じゃないから。私が望んだ形とは違うから。
「勝てない勝負を挑むのは愚か者のすることよ。それともあなた、それが分からないほど蒙昧なのかしら」
「お前みたいなのを野放しにするわけにはいかねぇんだよ。あたしのモットーは平穏に暮らすことだしな」
そう、とチトセは面白くなさそうに呟いた。
もう湖鷺さん達への興味なんてとうに失せているのだろう。
チトセは口で言うほど“人間”という存在に関心を抱いていない。憎悪を抱いているような口振りではあったけど、きっと本当は興味なんて無いはずだ。
人が羽虫を叩き潰すのと同じこと。
直接害は無かったとしても視界に入ると目障りだから──チトセの他者への認識はそれと同じものだ。
だから感情もまして感傷もなく、後は殺すだけ。そうやってチトセが人を殺める様を私はこれまでに何度も見た。
でもそこに私自身の罪は無かったと、本当に言えるのだろうか?
チトセは手の中で転がしていたナイフの切っ先を湖鷺さんへと向ける。
その距離は五メートル以上も離れている。だけど、どちらかが動けばすぐにでも詰められるだけの距離。
「飽きたし、私もう眠いの。だから──」
息を呑む音が聞こえた。それは私か湖鷺さんのものだったのか、それとも雲雀さんかツバメさんのどちらかのものだったのだろうか。
「消えて」
掲げたナイフを、チトセは僅かに左右に振る。
動作としてはたったそれだけ。なのに。
轟音と共に、部屋の一角が抉れた。
まるで隕石でも飛来したかのように、目に見えない何かが湖鷺さんの立っていた場所を削り取る。
不可視の一撃は、掠るだけで即死するような暴虐の嵐だっただろう。
湖鷺さんはそれを間一髪のところで全力で真横に飛び退くことで回避した。彼女はそのまま跳ね起きると、弾丸のようなスピードでチトセへと斬りかかる。
「あら、野蛮ね」
「いちいち、うるっせぇな!!」
私の目では追い切れない猛攻をチトセは涼しげにナイフ一本で捌いていく。
湖鷺さんの動きは常人離れしているけど、それでもチトセは子供をあしらうように余裕を崩さない。
そんなチトセからはどうやらツバメさんや雲雀さんの存在は頭からすっぽ抜けてしまっているみたいだけど、それが事態の好転に繋がるとは思えなかった。
金属同士が激しく交差する音が響いている。
一見、均衡が取れているように見える光景。だけどチトセが遊んでいるだけなのは火を見るよりも明らかだ。それは恐らく湖鷺さんも気付いているだろう。
チトセの気が変わったその瞬間、きっと呆気なく終わりを迎えてしまう。
それが分かっていてなお、見ているだけしか出来ないなんて。
チトセには多くを奪われた。だけど……たった一つでも、奪われない努力を私自身がした事は今までに一度も無かった。
(私……私は、)
この期に及んで、見て見ぬ振りが許されるの?
私は──変わりたい。
変われないわけじゃない。私が変わろうとしてこなかっただけだ。
ただ見ているだけなんて嫌だ。その運命を嘆くだけなんて、嫌だ。
これ以上、チトセに私の体で好き勝手されるのは我慢出来ない──!!
全身の血液がカッと沸騰したかのような錯覚。
体を奪い返そうとか、そういう事はあまり考えていなかったように思う。ただ、目の前の理不尽に抗うだけの強さが欲しくて。
「ッ!」
だけどその刹那、閃光が弾けたような音と共にチトセの動きが一瞬だけ縫い止められた。
何を隠そう、私自身が一番驚いたのだがそんな事を考えている場合ではない。
時間にしてみれば数秒にも満たない間。だけど湖鷺さんがその隙を見逃すはずもなく、彼女は崩れかけていた体勢を瞬時に立て直す。
そのまま間髪入れずに鋏を振り抜いた湖鷺さんだけど、それはチトセのナイフに振り払われた。
「…………器の分際で……この私に、楯突こうと言うの」
背筋が凍りそうなほど底冷えした声は、紛れもなくチトセのもの。
それは青い炎を連想させるような、静かで……壮絶な感情だ。
不味い。そう本能が告げている。
何がどうなったのか分からないものの、私が一瞬だけチトセの体の制御を奪えたのは確からしい。でも、それが恐らく彼女の逆鱗に触れた。
格下が舐めた真似を。そんな苛立ちが声色からして透けて見える。
勇気を出してみたは良いが、思いの外結果が伴ってしまった。
だってまさか出来てしまうとは思わなかったのだ。何が起こったのかは分からないんだけど。
こうなっては私のせいでこの場が血の海になるかもしれない。そんな最悪の想像をして顔を青冷めさせた、その時のこと。
──聞こ……るか悧……!
ぐわん、と脳内に響いた声に「は?」と間の抜けたことを考える。
え、何、今の?
私の脳が自然と現実逃避を始めたんだろうか?
だとすれば宜しくない精神状態だ。確かに人間が肉塊に変わる様はもう金輪際見たくないのは事実だけど、だからと言って幻聴が聞こえるようになってしまっては人として終わりである。
しかしかぶりを振ったのも束の間、直後に頭に響き渡った怒声に私はそれが幻聴ではなかったことを知る。
──聞こえてんじゃねぇか! 訳の分かんねぇこと考えてんじゃねぇよこの馬鹿!!
幾ら何でも馬鹿は言い過ぎなんじゃ……。別に学校の成績だってそんなに悪い方じゃないし……。
そんな事を考えて、ふと私は声の主に思い当たった。
あれ? もしかしてこの声、湖鷺さんでは?
慌てて湖鷺さんの方に意識を向けるけど、彼女はチトセとまだやり合っている。先程までと比べると湖鷺さんの方が随分と劣勢だ。
そんな彼女がピンポイントで私に話し掛けているだなんてやはり気の所為だろう。ナイフと鋏が打ち合う金属音は未だ断続的に響いているのだから。
が、そんな事を考えたのも束の間。
──あたしで合ってるっつうの! 今お前の相手に集中出来ないんだからとにかく聞け!
え、本当に湖鷺さん?
何で?
──詳しい説明は省く。あたしは何つうか、人の心が読めるんだよ。お前と……悧巧と、この女が別物だってことは分かってる。だから、
──今からお前からこいつを、引き剥がす!!
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