第9話 焦燥と決意する者

 怖気が走るとはこの事か、と。目の前で愉快げに目を細める少女に対して湖鷺はそんな事を考えた。

 こうなれば縄で縛り上げておかなかったのが悔やまれる。実は彼女はそれを提案したのだが夕凪に止められたのだ。


 確かに気にし過ぎだったかと、一時はそう考えた。

 ……得体の知れない何かが、悧巧 千妃路と名乗った彼女の内側に存在することには気付いていた。

 だが、敵意も悪意も何も無い──心の声まで馬鹿正直な彼女を見ていると自分が過敏になり過ぎていただけだったのではと錯覚したのだ。そう錯覚させられてしまった。

 だから、ダガーを引き抜いたのは本当に反射的な行動だった。考えて動いた訳ではない。ただ一瞬にして目の前の少女の中で弾けたがいっそどうしようもなく悍ましく、生存本能が悲鳴を上げたのだ。


「嫌だわ、愚かな人間。私ね、さっきからずっと気になって仕方がないのよ。その辺りにいるただの人間とは種類が違うお前達を殺せば……どれくらい力が戻るのかしら」


 突き付けられたダガーを気にも留めていないのか、少女は含み笑いと共に嘯く。

 言葉とは裏腹に彼女の瞳には殺意すら宿っていない。路上のゴミでも見るかのような、そんな視線が湖鷺を這う。


「……何モンだ、お前」


 蒼い少女から意識は逸らさずに、湖鷺は彼女の背後にいる水蓮寺に目をやった。

 彼女は普段は拳銃を持ち歩いている。隙を突いて撃て、とそう指示したかったのだが……水蓮寺は小さく首を振った。今は手元に無いのだろう。今日に限って、と湖鷺は内心で毒づく。

 確かに平和ボケしたこの国では不要かもしれないが、それは一般人の話だ。自分達がどれほど厄介事を引き寄せる存在であるか、知らないはずもないだろうに。


「私は六角が主、六大陸の王」


 ただ囁くように、少女は告げる。しかしその声は直接心臓を撫でられているかのように冷たく響く。


「……答えになってねぇよ」

「自分の無知を私のせいにするつもりなの? 近頃の人間はなんて不遜なのかしら。それにしても……」


 わざとらしく小首を傾げた彼女はそこで言葉を切った。

 湖鷺の汗ばんだ手に力が篭るが、蒼い少女は構わずに続ける。


「これ、邪魔だわ」


 鬱陶しそうに目を細めた彼女の指が指すのは、湖鷺が握るダガーナイフ。その動作は緩慢にも取れるほど悠長であり、少なくともナイフを恐れている様子は無い。勿論──湖鷺が一歩でも踏み出せば喉元を掻き切られるにも関わらず。


 ……こいつ、自分の状況分かってねぇのか?

 湖鷺が一瞬思考を逸らした、その刹那。


「図が高いわよ──」


 スッ、と。氷点下を感じさせる声が刺さる。

 本能がアラートを鳴らすよりも早く。全身が総毛立つよりも早く、ずっと早く。


「平伏しなさい……愚か者が」


 目の前の少女の姿が、


「湖鷺!」


 束の間の、意識の空白。

 悲鳴のような姉の言葉は随分と遅れて聞こえた気がした。

 横薙ぎに蹴り飛ばされたのだと湖鷺が気付いたのは、いつの間に奪われたのか湖鷺のダガーナイフを弄んでいる少女が目に入った後。

 椅子や机を巻き込んで崩れ落ち、湖鷺は激しく咳き込んだ。


(っづ……! はぁ!? 冗談じゃねぇ、いきなり無茶苦茶しやがる! あたしじゃなかったら死んでんだろ!?)


 立ち上がろうにも、意識が明暗を繰り返し力が入らない。

 殺す気で放たれた一撃だった。それも、腕に覚えがある彼女にも反応出来ない速度で。

 ノーモーションで繰り出された蹴りがこのような威力を誇るなど馬鹿げている。


「夕凪、姉貴……寄るなよ、こいつマジで洒落になんねぇ……」


 どうしてこんな目に遭っているのかと考えるとちょっと泣きたくなったが、弱音を吐いている場合でもないので気をしっかりと持つ。

 何者なのかも分からない蒼い少女だが、確実に彼女はこちらを殺そうとしている。それは言動からも明らかだ。


 せめて夕凪だけでも逃さなくては。自分や姉は能力者だが彼女は何の力も持たないただの少女なのである。とは言え、武器をも奪われたのはあまりにも致命的だ。

 湖鷺の能力は戦闘では大して役に立たない上、水蓮寺の能力では歯が立たないのは経験済み。


「こ、こさぎちゃん……どうするの? そもそも何が起きてるの?」

「あたしが聞きてぇわ。お前らなんつーもん拾って来やがったんだよ」


 そうやって無理矢理軽口を叩くことで凍り付きかけた思考を必死で巡らせていた湖鷺だが、違和感を覚えたのは丁度その時だ。


 ──第二撃が、来ない。


 現実逃避の為に逸らしていた意識を、蒼い少女へと戻す湖鷺。

 彼女は依然として先程と同じ場所から動く気配がない。


「……五月蝿いわね。私がどうしようと私の勝手でしょう? 人間の分際でこの私に刃を向けたのよ?」


 それどころか、少女は苛立ったように腕を組むと独り言を零していた。

 まるで、見えない何者かと会話をしているように。


「馬鹿なことを言わないで。この私を誰だと思って? 私は六角の王。王の威厳を示す為、礼儀を弁えない無礼者を処断する義務があるの」


 湖鷺は眉を寄せると、立ち上がろうともしないままある事に集中する。

 ……彼女の異能力はある程度のオンオフが可能だ。しかし完全に切る事は出来ず、普段は意識を向けないようにすることで誰彼構わず心を読み取るような事態を防いでいる。

 そのチューニングを、蒼い娘に合わせる。


『だからってなんて事するの……! いきなり蹴り飛ばすなんて!!』

「だから、不敬者に身の程を教えてあげたのよ。……お前の体は動きが鈍くて困るわ」

『じゃあ私の体を使わなきゃ良いでしょ!?』

「私だって自分の体があればお前のような女の体は使わないわ」


 水蓮寺と夕凪は困惑したように目を合わせたが、湖鷺は合点がいったのか小さく息を吐いた。

 傍目から見れば、蒼い少女は独り言を繰り返しているようにしか見えない。だが他者の心が読み取れる湖鷺だけは在るべき形が──悧巧 千妃路の声が届いている。


『自分の体も無いくせに人の体で好き勝手しながら偉そうにしないでくれます!?』

「お前は浅はかで駄目ね。力がある程度戻った以上、体くらい作れるに決まっているでしょう。今はまだこの体から分離する手段が無いだけなの」

『結局私の体を使ってる事実は変わらないでしょう!?』


 何の話をしているのかはさっぱりだが、彼女らはそうやって延々と言い合いを続けていた。

 それにしても強者の余裕というやつなのか何なのか、あまりにも人目を気にしない蒼い少女の様子に湖鷺も口元を引き攣らせるしかない。

 その気になればいつでも殺せる。湖鷺達に意識すら向けない彼女からは、そんな思考が透けて見える。


「化けの皮が剥がれたわけじゃねぇ。……文字通りさっきとは別人だったのか」


 彼女の精神、否、魂が二つ存在した意味を理解する。

 夕凪の「二重人格なのか」という意見に彼女は頷かなかった。一人の人間に複数の人格が存在したところで、あくまで一人であることには変わりない。

 それを踏まえると、悧巧 千妃路という少女はそれに適合するようには思えなかったのである。まさしく一人でありながら二人。

 だから湖鷺はこう称した。気持ち悪い、と。


(あー……つまり、悧巧を引き摺り出せば何とかなるんじゃねぇのか?)


 正直、彼女……いや、彼女らが言い合いをしている間に逃げたいのはやまやまなのだが、それを実行するには配置に少し難がある。

 湖鷺や夕凪はリビングを出る扉が近い為、飛び出せばどうにかなるかもしれないが問題は水蓮寺の方だ。どうしたものかと珍しくおろおろしている彼女は窓際にいる為、どうやっても蒼い少女とついでにこの騒ぎの中もまだ気絶している少年を横切らなくてはならない。

 窓から飛び降りるのも無論却下である。いくら水蓮寺の能力が特殊とは言えども、マンションの六階から落ちて無事に済むはずもない。特に、一時期に比べてマシになったものの基本的に彼女は異能の扱いが下手なのだ。


 どうしたもんかねぇ、とぼやきながら湖鷺は億劫そうに体を起こした。

 散らばった小物立てから拾い上げたのは一本の鋏。


 一か八かの賭けだ。

 無論、まともな勝算などない。

 ──どうしていつもこんな目に、と。そう嘆くのは、終わった後にしようと思う。

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