第28話 追複曲~蟹は月を見ている~
いつだってそうだ。“ひとり”でいると余計なことを考えなくて済むはずなのに、ふとした瞬間に内側から冷えきっていく感覚がする。
《……みんな、まだ寝ているわ》
嫌に現実味を帯びて、知っている人物たちの顔で塗り替えられた夢。それを忘れ去るまでに、私はベッドから起き上がり、一杯の水を飲み、再び眠ることにした。
飛び散る水が私の指先を食べるのを見つめながら、何故か先ほどまで見ていた夢を、頭の中で繰り返していた。
「おや。起きていたのかね?」
明かりのない渡り廊下の端から、聞き覚えのある声がした。夢中で本を読みふけっている途中に、声を掛けられた時のように。はっと顔を上げてわたしが見たのは、とある男だった。
口ひげを蓄えた妙齢の男は、傍らにフクロウを止まらせて、何やら手紙のようなものを広げていた。よく出来た石膏像のような、正しく狂いのない、厳格な佇まい。けれども何処か――染み込んだ汚れやわずかなひびをつついてしまえば、あっさりと崩れてしまいそうな。不条理な現実を知りながら、それを真摯に受け入れる潔さがあって、不思議と近寄りがたさは感じられない。
私は、彼と話をするために近付き、そっと右手を差し出した。無言で手を差し出す私に、彼は、む?と少し驚いていた。けれども、あぁそうかとひとり納得すると手紙をしまい、すぐに自分の左手を受け皿にして、私の手を取ってくれた。
《こんばんは、教授》
「キミとこうして会うのは久しぶりだね、◇◇◇」
実に良い夜だ、と続ける彼の姿は、嬉しさを隠しきれない少年に似ていた。良いことがあったのか、単に眠れないのか。純粋に疑問に思い、私は聞いてみることにした。
《こんな遅くまで、仕事なの?》
「うむ……頼まれている事があってね。図書室が静かな内に、調べてしまおうと思っていたのだ」
勤勉で有名な彼のことだ、表面上上手くこなしているだけで、あれこれと難題を抱えているのだろう。名のある“星”の中でもとりわけ年長者に数えられる彼は、私の貴重な話し相手のひとりでもある。他に干渉しすぎず、けれども時折熱心に話を聞く彼の人柄は、冷えきった“星”たちに安心と、束の間の休息を与えてくれる。
《……私、何か手伝えない?》
「あぁ、構わんよ。ならば、少しだけ散歩に付き合ってもらえるかね?途中で、キミの庭にも寄れる」
《ええ。案内するわ》
私が彼の提案を承諾したとき、“デエトはお二人でどうぞ”と、男の傍らに居たフクロウが彼方に飛び立っていった。
「“アレ”も、結局のところワタシの監視といったところだろう」と男は薄鈍色の空を、風に従ってゆるやかに流れていく雲の群れを、ぼんやりと眺めていた。
そしてゆっくりと歩みを進めながら、再び男は口を開いた。
「何故キミが、“声なきもの”になってしまったのか……それを調べていたのだよ」
《……!》
「キミは、飛び立つべきだ。黒い鳥かごの中で、果てるよりも」
《……貴方は一体、何をしようとしているの?まさか、》
ぱっと手を離そうとする女を、男は難しい表情のまま逃がした。そして、ふっ、と少しだけ口元を緩めると、“そのまさかだよ”と返した。
「力になれることなら、なってやりたいとも。ワタシはどのみち、戦闘には不向きだ」
《――ごめんなさい。でも、私、貴方が二度と消えるのは見たくない》
“次に何かあったときは、ワタシも一矢報いてみたいがね”と苦笑する男は、最愛の娘をなぐさめるかのように、私の肩にやさしく手を置いた。
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