第38話 仮面の占い師

「この前は、珍しく飲まなかったね」

「……?」

黒い客の何でもない一言を理解するのに、カウンターの向こうでグラスを磨いていたバーテンダーはほんの少しだけ考え込んだ。そうして、答えに辿り着いたところで手を止める。


「……あいつが店で“カクテル”を頼むのは、俺に何か“依頼”するときだけだ」

指定する数も色も、男とバーテンダー……依頼人と請負人だけに通じる『合言葉』だ。それは、いつも男が来店してすぐにやり取りをする。


黒い客が話題に上げた人物――今ではすっかり店の馴染みになった男。情報屋であり、ひっそりと行方をくらます男のことを、世間は“蜘蛛”と例える。ふぅん、とゆっくりと息を吐きながら、黒いローブの男は足元をぷらぷらと動かしていた。


「僕も、シンガーの彼女に会ってみたいなぁ」

「お高いぜ?去った後しばらくは、店が閑古鳥になりかねないぐらい素敵なお嬢さんさ」

「――君がそう言うぐらいだ。しがない占い師には、とてもじゃないけど眩しすぎるね」

どこか悪戯に微笑む店主の様子に、客は賭け事で惨敗したときのように“これ以上はやめておくよ”と頬杖をついた。


「歌い手たちは皆、魂を売ってるんだ。魂のない歌は他では響かず、体に残ることもない。人々は、日常で空っぽになってしまった“自分”という器を満たして欲しくて、何度も彼女らに会いたくなるんだろうね」

「……」


決して覗き見ることなどできない、黒いローブの下。そこから時折、深い水面の底を見通しているような・切れ長の三日月に似た瞳が姿を現すことがある。店主は決まって、何も言わずに、三日月が隠れるのを静かに待つだけだ。


店主の手の内で、さぁ……と音を立て始めた物に気付いて客がそちらを向くごろには、再び常闇が広がっていた。

「珍しい、今日はコーヒーかい?」

「たまには、お前さんに合わせるさ」

「上手いよね、君。……まぁ、僕は、味がわからないんだけど」

苦みを含んだ笑みをこぼして、客はじっと――視線を、店主からその下へ移す。


再び、三日月が現れた。今度は突然で、さすがの店主も困惑した。けれどそのとき、困惑は一度では終わらなかった。


――黒く長い爪が指した、砂時計の中心。先ほど、バーテンダーが裏返したばかりだ。

「“彼女”はここに居る」

「……どういうことだ?」

「暗闇に沈まないように・かろうじて浮いているおかげで、どこにも足がついてない。……けれどそれ故に、不安定であいまいな存在」

「……いずれ早いうちに消える、ってか」

察しがいいね、と黒が頷くと同時に、時計の砂は全て下へ落ちていた。


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