第34話 林檎の味
もう、随分昔の話だ。大きな時計台がある街に、美しい声を持つひとりの女が居た。
女にとって、“声”は命そのものだった。心臓よりも大切な、自分だけに留まらない輝き。無限であり、有限。心の赴くまま、鍵盤に触れて命を紡ぎだす。
小さな声の元には、足音のない風が集った。時が過ぎれば、女の白い肌に雨や雪が落ちた。とりわけ人が多い街でもなかった。人々は毎日何かを繰り返しながら、いつか来る平穏、一瞬・ごく一時の安らぎを求めていた。
いくら代償を払ってもいい
もっと歌いたい
女の甘い夢は、バラバラと砕かれた。街の外からやってきた魔術師たちが、住人たちにとあるお触れを出したのだ。
【言葉を繰り返し、切り取り、歌うことを禁ずる】
自分の歌、“命”である声、“命”の器である体。どれにも制約がかかることに気付き、女は苦しんだ。
どうしてそんなことを
見返りがなければ
意味がなければやってはいけないの?
いつもと同じように、小さく歌えば――
……全てから逃げてしまえばよかった。
逃げてしまえればよかった。
けれども、逃げたところでまた“誰か”の目に触れる。耳に届いてしまう。
手を掴まれてしまう。
女は、人の寄り付かない時計台の中で、隠れるように歌った。
「“特別”になるのは、苦しいことよ。
もう“それ”でしか満足できなくなる。埋まらない心は、毒の塗られた手のひらで転がされて……さ迷う」
かつて、先代の歌い手――女の母が言っていた。
人と“違う”ことが自分の価値になり、魅力になり、弱みになる。
日が沈んで、街にランタンの灯りが見えるようになる時間。人の目とまばゆい灯りを避けるようにして、女は時計台を降りた。その足が向かうのは、路地裏にある小さなバーだった。
「……今日も、静かね」
「あぁ。“雨”が止んで、もう三日経つ」
女が、つらつらと流れていくピアノの旋律を横目に呟けば、隣に座る男は短く頷いた。以前は沢山のグラスやチップが並んでいたテーブルも、まるで時が止まったように小綺麗だ。
歌が禁じられてから、女と男は、歌のことを“雨”と例えるようになった。いつの間にか始まって、いつの間にか終わる……やさしくて冷たい、世界の一部のことを。
今まで当たり前のように続いていた“雨”が、突然止んだ。人々が戸惑いを口にすることは、ほとんどない。むしろ、“体が軽くなった”とか、“街には雨が降ったことなんて一度もない”とまで話しているぐらいだ。唯一耳に残っている音も、段々と朧気に、遠いものになっていった。
せっかくだ、飲もう。男が明るく切り出し、二つのグラスに酒を注ぎ入れていく。
「――そうね」
「……懐かしいな。バーのステージに立つお前は、いつも輝いていた」
「……いつも言ってくれたわ。“きれいだ”って」
空いた片手、どちらともなく触れた指先。互いにぎこちなく固まって、それ以上は進まない。
「魔術師たちが、毎日のように“雨”を探し歩いている。……何故かわかるか?」
「……監視してるの?決まりを破っている住人がいないかどうか」
「俺が思うに、“お前”を探している気がするんだ。心から“雨”を愛し、魔法のように人々を魅了するお前を」
“雨”が止んだことで、街の人々の心は錆びなくなった。言い様のない虚しさ、寂しさも最初だけ。激しく揺さぶられることも、壊れることもなく――ただ淡々と、痛みを忘れていく。
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