第35話 なんでもない話

「もしも全てがさかさまだったら……なんていう幻想をしたことは?」

「……また“いつもの例え話”か。飽きないねえ、お前さんも」

黒いローブを着た客が、妙に楽しそうに語りかけてくる。隣に座るもう一人の男はウイスキーを飲んでいる途中だったが、こん、とテーブルにグラスを置いて、じとりと黒を見た。


「ふふ、まあね。――君があまりにも口寂しそうだから、お喋りに付き合ってあげるよ」

ころころと笑うローブ――占い師の男が、ふん、とそっけない返事を返す隣の男――店のバーテンダーに言った。


「君はまるで、眠らない火花だね。暗がりの中で声を殺しているのに、熱を帯びた光が色んなものを寄せ付けてる。自分が消える日を、数えて選んでるのかい」

「――目の前が光って見えてる間にも、確実に、俺たちは暗がりに飲まれ始めてるさ」

「……君の歌姫もそうだった」

言い様のない沈黙が、二人の間に生まれた。


愛された歌姫は、泡になる。

確かに存在して、舞台に居るのに。

美しいと例えられ、手の届かない光と言われ。

熱を向けられる度、微笑み、寂しさを浮かべて。

一瞬でも目を離せば容易く消えていってしまいそうなほど、儚く映る。


「飲むかい」

「ああ」

男のグラスに、新しい酒が注がれた。実体のない黒には味がわからないのだが、隣の男が喜んで受け入れることを知っているから――勧めた。


「……ひとつ疑問だったんだが」

「ん?」

珍しく、酒を飲みながら男が聞いてきた。職業柄もあってか、普段は物事にあまり深入りしない主義なはずだ。黒い客の耳あたりが、さわさわと驚きで揺れた。


「なんでお前には、“ある”のに“ない”んだ」

「……僕かい?僕はね、ご覧の通り。“体ごと”ふっとんでしまって。体をなくした悲しいこたちが集まって、“僕”になったんだよ」

寄せ集めの心が、隠れるように黒を纏って。ローブの下で、男が喋る。


「カラスになってもよかったのだけど、カラスになるには、誰かに仕えなくちゃならないからね?」

一度バラバラになった悲しみたちは、再び誰かのものになることを望まなかった。何かに支配されること・縛られることを良しとしなかった。ある種、『体』というしがらみから解き放たれたであろう自分を、それなりに生きてみようとした。


「誰かのそばにずーっと一緒に居るとか、同じ場所で毎日を繰り返すとか――僕には、到底無理だ」

淡々と軽い調子で話す客の声が、細められていく。


眩しい世界、光と交わることが怖い。

特に、人が持ち、放つ光が。


だからこそ、気の許せる相手――今酒を酌み交わしているバーテンダーや、馴染みの情報屋の男――にも連絡を取らずに、ぱたりと姿を見せなくなることがあると、客はさらりと言った。


「――“いつの間にか忘れられる存在”だからか」

最後の一滴を飲み干した後で、バーテンダーが問う。それにこくりと頷くように、占い師は笑って見せた。


「ずーっと僕が居たら、時間が止まっちゃうことの方が多いからね」


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