第33話 蜘蛛と時計と
「いらっしゃい。何を刻むのかね?」
狭い店の奥から聞こえたこの言葉を聞いて、ほとんどのものは、飲食店の厨房を思い浮かべるだろう。
実際、声の主は物事を、あらゆるものを“刻む”ことが大好きだったから。料理をするのも、映画を観るのも、日記を書くのも、絵を描くのも。
“刻む”という行為そのものを、好いていた。しかし、一番好いていたのは、“時計を作る”ことだった。
「あぁ。嘆かわしい。私が店(ここ)からいなくなったら、このこたちは、“私のいない時間”を刻んで生きていかなくてはならない」
彼は、自らの手で生み出した作品――小さなものから大きなものまで、名前のあるもの・ないものどちらも――の行く末をひどく案じていた。
彼は夜眠りに着く前に、店にある作品の数を数える。時折、額縁を裏返したり、首が痛くなりそうなほど天井を真っ直ぐに見つめ、日付のラベルやサインの跡を確認する。
鮮明だったはずの記憶も、インクも、時が経つにつれ剥がれ落ちていくようだった。薄まって消えてしまうだけならまだしも、ガラスのように砕けて、体の何処かわからないところに延々と刺さり続けて止まない。
男がベッドに伏せてもがいているときに、店の扉からひっきりなしにチャイムが鳴った。止んだかと思えば、今度は乱暴なノックが聞こえた。
抱えているものを分けてください
時間は止まりません
怖くて声も出ない男のかわりに、店の庭に咲く薔薇たちが、刺のある体を扉の方へと伸ばした。上からは、黒いカラスたちがいつも見張りをしていた。店に住んでいた一匹の蜘蛛は、男の大切な作品たちが埃をかぶらないように、大きな巣を張った。
もう誰も、男を怒鳴らない。
泥をかぶり、無惨に切り取られた薔薇たちは、雨の下で横たわっている。黒いカラスたちは、いつの間にかどこぞへと飛び立った。唯一、一匹の蜘蛛だけが、じっと男を見つめているようだった。
「……存在し、息をする。意思を持ち、動く。どちらにせよ、世界から許されなければ、叶わないことなのか」
大好きだったはずの生活が、苦しみに変わる瞬間が増えた。
男は、ひとつの結末を考えた。
「私は終わり、“私”は始まる」
男は自らの手で、“自分”を作り始めた。皮膚の皮はもちろん、心臓の部品もだ。何も特別なことはなく、店にあるもので作りあげたらしい。
「次の“自分”か」
「ああ」
店のどこかから、小さくてよく響く声がした。男はさして驚くこともなく、高揚した声で頷いた。
「いつかまた、壊れるぞ」
「おかしなことをおっしゃる。私たちはまさしく、“生きた時計”だろう?」
男の手の中には、“時計”が握られていたようだ。
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