第32話 ヨツバの男
「俺の羽が珍しいか?」
煙草をふかしながら、髭面の男はそう言った。少し離れたところに座る女が、唇を小さく動かして「いいえ」と答える。
男の背中には、黒い光沢。蝶に似た羽が小さな星屑のように瞬いて、そこに存在していた。四枚あるはずの羽は一枚欠け、所々緑や銀を映しながら、ゆらゆらと空気をあおいでいる。
「羽が、」
「――いいさ。もうすぐ、また千切る」
男は薄く笑いながら、ふーっと煙を吐いた。苦い白の匂いに、女は目を伏せた。
「……あなたはそうやって、自分の命を“また”誰かに分けるのね」
もともと明かりの少ない部屋だったが、女は、眩しい何かから目を反らすように。視線を影に落として、静かにそう言った。
「おまえの大事な奴も、同じ事をしたのか」
「……最初は分からなかったけれど、一緒に旅をしているうちに。段々と“彼”が目に見えて弱っていくのが分かったから」
「――今は?」
「今も、そう」
男と話すうちに、女は、今話している場が“夢”の中であることを理解したらしい。
「……俺は充分、化け物さ。手足のもげた虫は異質と見なされ、毛嫌いされる。欠けていることを“可哀想”だと同情されて、痛いほどの視線に刺されながら、這いつくばって生きてくのさ」
男は、しばらく座っていたカウンター席の椅子を立ち、女の方を振り返った。
「……」
「いい店だな。馴染みのところかい」
「バーテンダーがいるの。“彼”の友人よ」
女の口許に、初めて笑みが生まれた。懐かしさと、ひとつまみの寂しさが混じっているようだった。
「俺たちに必要なのは、大きな羽でも、自在な手足でもない」
男は、テーブルの上に置かれたカクテルのグラスを、左手で傾けながらこう続けた。
「“感覚”だ。あらゆる痛み、弾み――どこにどんな奴がいるのか、自分で見つけるための」
快を知るものは、不快が分かる。不快を知るものは、快を知ることができる。今日、そしていつか出会ったことを、頭と体が、血と肉が覚えているからだ。
「おまえの音が聞きたい。作られた決まりある音ではない、ひとりの歌を」
「ありがとう。――次は、私があなたの店に行くわ」
「気持ちは嬉しいが、ひとりで来るところじゃあない。連れと来な」
男がぶっきらぼうに言うと、女はやわらかな笑みを浮かべながら去っていった。
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