第23話 ジャムとパン

「◯◯◯は、歌を歌ったことはありますか」

「……何故」

そんなことを聞く、と情報屋の男の表情は先ほどからほとんど変わっていない。窓辺から入り込んできた微風で、男の髪だけがなびいていた。


金のカーテンの隙間から、赤と緑の果実が覗く。以前なら頑なに隠していた色違いの目を、男が気にする様子ももうない。いつだったかシンガーの女が、林檎みたいですね、と男の目を見て言ったとき。男は“どっちが好きだ?”と悪戯っぽく聞いてきて、女が“どちらも”と答えると、一瞬だけ笑っていた。

艶やかで、けれども恐らく、誰も食べることなどできない果実だ。


「いえ、ちょっと聞いてみただけです。気にしないで」

「……子どものころだ。ライラバがよく歌ってくれたから、それを真似していたな」

「“ライラバ”?」

普段から、職業柄もあり情報のやりとりには慎重な男。その男の口から特定の人物の名前が出てくるのは、かなり珍しいことだ。思わず女も、名前を繰り返し唱えた。

「幼い俺にとって、姉のような人だった。神官で、じいやの弟子で、“月の一族の最後の長だった人”だ」

蝋燭を吹き消した後に残る、煙。一瞬で黒に染まり、視界から溶け消えてしまう男の静かな声が、淡々と過去を語る。

『どんなに輝かしいえいがも、人は忘れる。何かを覚えて、何かを忘れる。捨てて、拾う。拾うために、捨てる。そうやってできているさ、世界も、時間も』

“あのとき”。情報屋にーー目の前の男に初めて会った夜、同じような声色で男は言っていた気がする。何かを繰り返すことも、元に戻すことも、その両方を男は嫌っていた。きっともう、数で数えきれないくらい、しあわせの歯車が壊れる瞬間と、その末路を見てしまったのだろう。


「もういない。月の一族は滅びた」

「……」

「××は、何故歌を歌う?」

「私ですか?私は、ひとりになりたかったから」

今度は、女が答えた。女の目線がすぅっと下に沈むのを見ながら、男の手が彼女の髪をかきあげる。


「ひとり、か」

「ええ」

ゆるやかにウェーブのかかった長い髪が、ぱさりと女の肩に、胸に落ちた。

「誰かのなかに残る、ひとりになりたかったから」

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