第24話 灰色の序曲

「……誰かに“相談”というわけにもいくまい。しかし……」

突然、血塗れの少女が上から降ってきた現場に居合わせた男の心配といえば、少女が目を覚ました後のことだった。血塗れの人間を目の当たりにするのは、男にとっては何も特別なことではなかった。しかしどちらかといえば、“もう息のない”人間を見ることの方が多かった。


事件、と呼ぶには情報が少なすぎ、事故、と片付けるには大きすぎる。仕事柄もあり、ほとんど冷静さを欠かない男が、珍しく対応に悩んでいた。


今、男の執務室で倒れている少女は気を失っており、全身に血が飛び散っている。青みがかった長い黒髪が、ゆるやかに波打って床に広がっている。力の抜けた体、右手から、恐らく少女のものであろう短剣が落ちていた。じっと様子を観察していた男は、絵画に描かれたような光景だ、とも思った。


「……息は、まだあるな」

視診する限り、少女はまだかろうじて生きている。仮に目を覚ましたとして、少女が、傍らに転がっている短剣を手に切りかかってこようものならどうする?


少女は深手を負っており、早急に適切な治療を施さなくてはならない。そう思った男は胸ポケットの携帯を取り出したものの、指が数字を押すことはなかった。

――この少女を、病院に搬送してよいものだろうか?

“普通”ならば、それでよいのだろう。

『血塗れの人間が突如、面識のない部屋の天井から降ってきて、気を失っている』状態・状況を“普通”と判断できるのならば。


罪のない人間を、刑務所に突きだすような真似はできない。そう思った男は、胸ポケットの奥にそっと携帯をしまいこんだ。


――それと同時だった。少女が、朧気な視界の真ん中に見慣れぬ男を確認しながら、ゆっくり、ゆっくりと目を開いていく。

「……!目が覚めたのだな。……その、気分はどうだ」

「……」

果ての見えない、どこまでも続いているような海の瞳が、男を静かに見つめた。

「……ごめんなさい、部屋を汚してしまって」

「そんなことはいいのだ。キミ、私のことよりも自分の心配を……」


部屋の主が目の前の男であることを察した少女は、低く早口ぎみにそう言うと、動かない体にぐっと無理やり力を込めて、上体を起こした。けれども傷が痛むのか、苦しそうに顔を歪め、“夜が明けたら行きます”とだけ男に告げて、口を閉じた。


――まるで、自分が血を浴びて疲弊しているのはいつものことだとでも言うように、あっさりとしている……

「……私は、キミに死んでほしくない。しかし、キミを今病院に連れていくのは、何というか――駄目だと思うのだ」

「!」

「治療は手伝えない、だからせめて、シャワーぐらい使っていきたまえ」

自分が敵ではないこと、害を与えるつもりは一ミリもないことを、男は何とか少女に伝えたかった。


「……わかりました」

「!……シャワーは向こうだ。簡単な着替えぐらいはある」

少女が特別戸惑う様子もなく提案に従ったので、男は胸を撫で下ろすような心地だった。


――よかった。私に敵意がないことは伝わったようだ。

『何を余計なことに首を突っ込んでいるの』と、男をよく知るきょうだい弟子なら言うだろう。“おせっかい”、“深入り”と言われてしまえばおしまいだが、男からすれば“傷だらけの少女を放っておけなかった”が正しかった。


――今夜は冷える。温かい飲み物を淹れておくとしよう。

少女が出てくるまでの間、男は棚から紅茶の茶葉やカップを取り出して、しずしずと準備を始めた。



「……ありがとうございました」

ばたん、と物音ひとつでシャワールームから出てきた少女の顔からはすっかり、血の色も、匂いも洗い流されていた。


ふかふかとした白いタオルで髪の水滴をぬぐいながら、ふわっとソファーに腰掛ける少女。艶々とした髪が蛍光灯の光に跳ねて、やさしい夜を奏でている。一点をじっと見つめるまっすぐな青は、少しだけ特別な思い出を見ているかのようだ。

そうして、鼓動を取り戻した四肢には、幸い傷はない。


「あの、何かありましたか」

「――いや、かなりの出血だったろう。傷は」

驚いている様子の男に、あぁ、と少女は頷いて、“全部返り血だったので”と軽く流した。


――誰かと争ったのか?

男の脳裏に、また行き場のない疑問が浮かんだ。しかしそう仮説を立てるならば、この少女は殺人――あるいはそれに準ずる事件に関わっていることになりはしないか。けれども今その答えを少女に問うことも、考えを巡らせることも、男は瞬時に放棄した。


「そうか。……冷めないうちに、これを飲むといい。紅茶でも良かったのだが、もう夜も遅い。それに――」

“疲れているときは甘いものを、と言うからな”……と、男はココアの入ったマグカップを少女に手渡した。

「その……“甘いもの”は苦手だったろうか」

「!いいえ、好き、です。それに――ココアは、特別です」


“よく、パパが淹れてくれたので”と嬉しそうに付け加える少女に、男ははっとした。そこには、心地よい風を肌で受けながら、大切な何かを懐かしむような――誰かを待っているような緩んだ笑顔が、生まれていた。


男は紅茶、少女はココア。

真夜中のティータイムは、蛍光灯の下で二人きり、こっそりと行われた。

「ずいぶんと、お世話になってしまいましたね」

「私のほうこそ、長居をさせてしまってすまない」

「……忘れない内に、お名前を聞いてもいいですか?」

「!名乗りもせずに、失礼した。私は――」


慌てて名乗る男に、少女はふふっと笑みをこぼしながら答えた。どちらもお互い異国の名前で、途端に、住む世界も、これから向かう場所も違うのだと思い知らされるようだった。


「ありがとう、――さん。あたし、生きますから」

少女は言葉をゆるやかに歌い上げると、沈黙の余韻と共にすぅっと姿を消した。

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