第22話 透明な秘密
「私を忘れないで」
何を言うのか、と男の心は戸惑いに震えた。男はただ、女の声が--命が逃げてしまわぬように、その扉にそっと蓋をした。行き場を失った空気が、ふっ……と、扉のわずかな隙間――女の唇から霧散していく。
「いくな」
「……!」
何処に、とは聞かない――そして聞けない。男も女も、互いの行く末をよく分かっているからだろう。特に、女は。
バーのステージや、路地裏の舞台。そこに立つ女を見て、その歌を聴けば、誰も動けなくなるのだ。
近付くこともままならない、薄暗い美。徐々に激しくなる雨のように荒々しく、無防備。今すぐにでも何処かへと消えていってしまいそうな、燃える命を目の当たりにして。
「冷たい手」
「……おまえもだ」
男の手袋ごしに、女はやさしく息を吹き掛けた。
*
きん、とどこまでも冷えきった、純白のカーペットが敷き詰められたある町外れに、私と彼は居た。
彼が言うには、依頼人はここを越えた森の奥に住んでいるそうだ。
行くぞ、と男が足を進めようとしたとき、
「もし。あの森に行くのかね」と呼び止める老人の声がした。
「ええ、そうです。……あの、何か?」
「あの森に一歩でも入ったら、何があっても決して声を出してはならん」
「何故でしょう」
「たちまち吹雪が起きて、お前たちを飲み込んでしまうからじゃ。あの森は生きておる。約束を違える者は食われるのみ」
そこまで言うと、老人はそこらの切り株の上にとすっと腰掛け、傍らのランタンに油を入れる。
持っていけ、と差し出されたそれを、男は首を左右に振るだけで断り、女も足早に森へと急ぐ。ここからはお互いに口を開いてはいけない。
そうして、二人が足を踏み入れた森。その全てに霧――目に見えるだけでもかなり濃く、周りの風景もほとんど認知できない――がかかり、来訪者を迷いの道へと誘っているようだった。
静かに、そして何の躊躇もなく歩みを進める男は、慣れない空気に冷えきった私の手を、きゅっと掴んで導いてくれている。白と黒の手が、重なる。
「数年に一度の大事なお祭り」
「姫様が、踊るの」
「ぼくらの声、小さい。人の声がするとお互いの声も聞こえない」
ふわふわと、頭上からこだまする不思議な囁きに気付いたときには、花の香りを纏ったひとりの女性――鹿のような一対の角が、美しく曲がっている――が前にいた。
「あぁ。いつぶりでございましょう。月の一族の方にお会いするなんて」
うっとりと酔いしれるように語る女は、その口ぶりからして“人”ではない。
くすくす、くすくす。
「まほうつかいにおわれてる」
「かわいそう」
「“星の道筋を教えろ”、と仰るのですか……?」
女性は指先で星座を結びながら、こちらを見向きもせずにそう言った。
「また近いうちに現れるでしょう。魔術師たちも、結局は星の道筋通りにしか生きられないのですから」
「……そうか」
男の声はいつも通り落ち着いているようで、けれどもどこか焦りを含んでいた。そうだ。いつまた魔術師たちと道が重なるか、わからないのだ。
「まほうつかいはないてるよ」
「あいたくてもあえないから」
「……かれらは、一度闇に落ちた星たちです。決して逆らうことのできない、力によって」
「あなたはまだ――」と女――シンガーの姿を写しながら、鹿の瞳は揺れていた。
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