第16話 樹海の司書

「あまい香り。それは、チョコレートかしら」

「あぁ」

「あなたは何故、それが好きなの?」

「……」

「何故あなたがそれを持ち歩いているのか、とても興味があるわ」

「……今までで一番、難しい質問だな」

情報屋は、ふぅ……と白い息を吐いた。普通の人間なら、この場所の寒さと空気の湿り気に体を支配され、“カノジョ”の質問にまともに受け答えすることなどできないだろう。


外の光すら届かない、閉ざされた樹海。その中に生きる、館の図書館。数年に一度だけ紅茶の香りが漂い、それにつられた蝶々が窓を埋め尽くす。


「理由って面倒くさいものだけど。あなたの手元に残っているならば、それだけでも何かしらの力を持っているはず」

「……」

「会いたい人がいるの?」

司書の的確な質問に、情報屋は首も、口も、目も動かさなかった。かわりに、テーブルの上に置いた自分の両手――組んだ指先を、一点に見つめていた。


「……“あのひと”が何故、いつも寂しそうに笑うのか。俺はそれを、聞きたいんだ」

「そう。とても大切なひとなのね」

司書はその一言だけで、男への問いを止めた。


「そういえば、不思議なものを見つけたの」

バサリ、と司書の手によって乱暴にテーブルに広げられたのは、穴だらけの地図だった。それも、一枚や二枚じゃない。情報屋がぱっと見た限りでも、半分だけきれいに取られたものや、切れ端だけのものもあった。


「正直、どう扱うべきか困ってるの。あなたなら、どうする?」

司書がそう聞くと、情報屋は無数の地図の中から一枚だけを手に取り、“これだけは燃やす”と告げた。

「何故」

「そうしようと、俺が思ったからだ」

「そう……面白いわ」


この司書は、別に明確な答え、導きが欲しいわけではない。ただ単純に、男との会話を楽しんでいるだけだった。しかし、カノジョの問いは決して遊びではなく、いつだって真剣だと男は感じていた。


「どんな手段であれ、手に入れた地図をどう読んで使うかは、そいつ自身の勝手だろう」

無価値なものとして、危険なものとみなして燃やす。或いは、少しでも有効に使おうと、地図の読み方を調べるか他に譲る。


破れがあることを気にして、千切れた部分を必死に探す。むしろそのようなことは一切気にせず、ただ丸めて棚にしまう。そうする内に、手に入れたのは自分なのだから、何をしてもいいのだろうという錯覚に陥る。


「確かにその通りなのだけど、それじゃあまるで子どもね。知らなくてもいいことはこの世に沢山あるだろうけれど、それでも教わるべきこと、知るべきことは多いはず」


かわいそうに、と司書は地図に描かれた食虫植物――すでに枯れている――を見下ろした。

「きっと、毒の見分け方が分からなくなったんだわ」

空腹って恐ろしいわね。司書は硝子玉の目を濁らせて、薄く笑っていた。情報屋は静かに首を振り、枯れた親のすぐ隣――小さな子どもの方を見た。


「生きたくて食べたんじゃないのか。毒の分析を……毒の生まれた場所を考えている内に、そいつは飢えて死ぬ。そうなるぐらいなら、考えずに食らうことにした……俺もそうだ」

「……あなた、変わったわね」

“私はまだ……”と司書がうらやましそうに呟いたとき。群がっていた蝶々がバリン、と窓を破り部屋に迷い込んできた。


「食い破るのが……食い破られるのが怖いわ」

そう言う司書は男の覚えているシンガーと同じ顔かたちで、蝶に向けてふっ……と息を吐いた。蝶はたちまち、砂のように消えてしまった。

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