画廊に残る
第15話 幸福の薬
「……あんた自身の願いじゃあないのか?」
薬屋の店主は、訝しげに片目だけでシンガーを見上げていた。
「……私の願いは、大きすぎましたから……。多くを犠牲にして、倍になって私自身に返ってきてしまった」
そうなるくらいなら、願わなければよかった。女の顔は、目に見えて冷たかった。けれども、その妖精のようにやわらかな瞳の内には、決して消えることのない熱があった。
「急に押し掛けてしまい、すみませんでした。……薬と交換できるもの、探してきます」
薬を手に入れる術を持たないシンガーの足は、とぼとぼと店の扉に近付いた。
すると、“待ちな”と店主の熊のような声が、それを止めた。
「……お嬢さん、あんたの時計に張り付いてるのは、蜘蛛の糸だな」
「!」
懐の奥に大事に納めてあるというのに、薬屋は目敏く見つけたらしい。
「一瞬でいい。見せちゃあくれないか」
「……どうぞ」
私は、壊れないようにそれを取り出し、両の手のひらで包み込み薬屋の前に差し出す。そうしてすぐに、“もういいぜ”と薬屋の目は横に逸れた。
「蜘蛛の糸といえば、地獄に垂らされた救い。手にしたものにもたらされるは“死からの甦り”……ってな。あんた、一度死んだのか」
「……」
とても、難しい質問だった。“あのとき”の私は、はっきりと死を感じたわけではない。それに今、もう一度何かをなぞらえているわけでもない。
「“そうかもしれないし、違うかもしれない”……としか、お答えできません」
「そうか。……夜明けまでは開けといてやるから、早く行きな」
店主はそれ以上何も語らず、使いふるした網笠を片手ですっと深く下げた。
夜明けまで時間はない。
急がなければ、とシンガーが再度扉に向き直ろうとしたときだ。
「もし」
震えのない無機質な声が、薬屋の視界の先――私の後ろから聞こえた。しかし、そう聞こえたのはほんの一瞬。
「ご主人。薬を一瓶、お願いしたいのですが」
真っ直ぐと背の高い青年は、細く小さな酒瓶を手にそう尋ねた。店主は、深く下げた網笠の下でカッと目を見開き、次には懐かしそうに笑みをこぼした。
「!あぁ。……久しぶりだな。今日はどいつの薬だ?」
「表のお子さんに」
「いいぜ。けど、それだけじゃあ安すぎる」
店主は快く申し出を受け入れたが、青年の持つ酒瓶を指差して、少々困った様子だ。
「では……こちらの方のご用向きもご一緒に。……足りますか?」
「……十分だ」
“ちょっとばかし時間かかるから、ここで話でもしててくれ”と、店主は暖簾の向こう、奥の薬部屋に消えていった。
「あの。勝手に事を進めてしまい、申し訳ありません。お急ぎのようでしたので……」
青年の赤い瞳が、薄暗く埃っぽい店の中でよく映える。“こちらこそ……”と私が頭を下げれば、“先ほどのお話ですが”と、青年が何かを思い出したように口を動かし始めた。
「蹴落とされ、血にまみれ、泥臭いそんな場所で、糸はあなたさまに絡まった。……あなたさまを大切にされたい方が、そうなさったのでしょうね」
「……はい。本当に、有り難いことです」
その後、店主が薬を携えて戻るまでに何を話していたのか……それは、シンガーと青年だけの秘密だ。
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