第3話 桜の待ち人
縁側の障子を開くと、桜の花びらが一斉に視界に飛び込んできた。
「そうかい。……帰ってきてるのかい」
老婆はそうのんびり呟いて、琴の弦を一本、爪で弾いた。からん、と美しい音が響き、庭の松が風に揺れた。老婆の傍らにはいくつかの茶器があり、来客を招く準備は整っている。
早朝の、まだうっすらと霧がかかっているころである。
「お変わりありませんか。こちらは春になったばかりなんですね」
「おかげさまで、元気にやっているよ。ばばの楽しみといえば、茶を飲みながら話を聞くことだからねえ。……嬉しいよ」
仕事以外では敬語を使わない男が、老婆に優しく問いかけた。対する老婆は、皺の刻まれた指を口元に当て、上品に、しかしどこかあどけなく笑った。
ほんわりと日が差し込む和室の空気は澄み渡り、まるで時が止まっているような錯覚を感じる。
「珍しいじゃないか。お前が誰かを連れて来るなんて」
「……ご冗談を。わかってらしたんでしょう?」
実際、茶器はきちんと3つ用意されており、鴬色の抹茶が器を温めている。
「私は、ここで医者をやっていてね。…お嬢さん、名前を聞いてもいいかね」
「温かいおもてなしありがとうございます、お婆様。私は……」
私の名前を聞いた瞬間、老婆は一瞬驚いて、でもすぐに「……なるほど」と納得した。
老婆の目元は布で覆われており、表情は見えにくい。
「お嬢さんとお前。半分ずつなんだねえ。」
そう、男にだけ聞こえる声で呟いた。
「今日は、届け物を預かってきたんです。」
「おや、私にかい」
霧の探偵から預かった、あの手紙だ。
「……読めないね。読んでおくれ」
老婆は手紙に手をかざし、中を改めようとしたが、すぐに渋い顔をした。それもそのはず。手紙の文字は、明らかにこの国とは文化圏が違うからだ。
「“ご機嫌麗しゅう、東洋のマダム。先日は大変世話になったね。紙面で申し訳無いが、改めて礼を言わせてほしい。”」
男は淡々と、しかし書かれている内容をそのまま忠実に読み上げる。
「“さて、本題だ。実はまたマダムの力を貸してほしい。今僕たちの住む町で、『大変な事件』が起きているんだ。”」
「『それ』、この間も言ってなかったかね」
老婆が、呆れた様子で茶を一口すする。男も一度手紙から視線をそらし、
「あいつは物忘れが激しさを増していて……三回見聞きしないと思い出さないんです」
すぐに消える溜め息をついた。
男は今一度手紙の続きを声に出す。……結局、探偵の言う『大変な事件』の詳細は手紙が終わっても謎のままだった。
「随分と物騒な町なんだねえ……」
でも、と老婆は一度言葉を切ると、まっすぐ男を捉えた。
「…いつから運び屋になったんだい」
「転職したつもりはありません。」
ついでです、と男は付け加える。その様子に、老婆は「寄り道もほどほどにね」と男を静かに嗜めた。
「いいだろう。ただし、私の薬は強すぎるよ。探究するのもほどほどにしろと伝えるんだね。」
「……わかりました」
老婆の懐から出された白い巾着袋を、男はコートのポケットにしまう。
「悪いねえお嬢さん。ばばがつい長話をしてしまうから、すっかり蚊帳の外……」
「いいえ。“私にはわからないこと”ですから……」
私は、そう自分で言いながら、背筋が凍るのを感じた。やっぱり、私は部外者なのだ。足手まといなのだと。
「人はね、会うべくして会うんだ。一度引き合ってしまったら、離れられないんだよ。」
特に、情報屋は求めないとまず会うことはない。
「お婆様……」
ありがとうございます、と言おうとしたときだ。急に風がびゅううっっと吹いて、部屋に春の妖精を招き入れた。
思わず、目をつむってしばらくした後。
「それにこの子、一度決めたら曲がらないのよ。今更“つれ回すな”なんて言う方が無理だからね?お嬢さん」
「あっ……!!」
私の目の前に老婆の姿は無く、代わりに一人の女性が整然と座っていた。
「どんな姿でも愛してくれる人と一緒に居るのが一番だわ。特に女はね」
びっくりさせちゃった?とおちゃめに笑う女性は、老婆と同じ紺の長髪に……それと同じ色を宿した瞳だ。
「そうだ。良かったら、何か食べていって。ちょうど畑で良い野菜が採れたの!」
言葉を紡ぐ桜色の唇も美しいのに、女性は少女のように瞳を輝かせ、「どうかしら」と向かいに座る私と男を交互に見る。
男は私をちら、と一度横目で見てから、「……わかった」と答えた。
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