第40話 蟻のお茶会

“蜘蛛は、埃を食べてくれるのです”


あの夜、遠巻きに目にしたその一節が、今もなお私の体内に色濃く記憶されている。


「……“あのこ”は、蜘蛛ですか?」

「そうね。じいやが、そう名付けたの」

私は、隣で魔術陣を描いていたおねえさまに、そっと聞いてみた。おねえさまは一瞬――

一秒だけ、白いチョークを動かしていた指を止めた。そうして、静かに答えた。


私は、おじいさまに《蜘蛛》の名を授けられた“あのこ”に勝手な親近感を覚えていた。私と同じ、小さい虫の名前だったから。そしてもうひとつ。純粋に、一族のなかで私と一番年が近かったからだ。


「こんにちは。今日は、この本にしましょう」

そう言って日課のように、毎日違う本を傍らに携えて。私は“あのこ”の元へと通う。あのこはというと、静かにこくりと頷いて、じぃっと私の手から渡った本を読む。今思えば、何の変哲もない“読書”の光景が、何故かとても神聖なものに感じてならなかった。私が本を届けに行くのは“あのこ”の頼みでも何でもない、本当にただの私の気まぐれな、何となくの行為だった。


「……これ。どうしてカラスは鯨になったの?」

すぅっと耳に、風のような声がすり抜けてきて、私ははっとした。あのこが“これ”と本の中身を指差すときは、大概私の書き込み――という名のメモ書きについて、質問するときだからだ。


「……自分の体を、盾にするためだと思うわ」

「どうして」

「できるだけたくさん息をして、生きて、居られるように」

「……“家族”のところに?」

「きっと」

私の目の前で分厚い本を広げていた男の子は、そっか、とそっけなく頷いた。いや、そう見えたのは一瞬だけ。男の子は膝元を飛び交う小さな蝶々を見つけると、それを見るために視線を落とした。


「……君の“家族”は、誰?」

静かに発せられたその一言を聞き取り、意味を理解するのに、私はひどく混乱した。彼は、誰に向けて・どんな気持ちで・どんな反応を予想して言葉を発したのだろう。

彼の視線は、小さな蝶々の羽を射抜いて穴空きにしてしまうのではないかというぐらい、鋭かった。


「僕の“家族”の声は、いつもずっとずっと遠くにあるよ。でもきっと、今はそれがいいんだと思う」

森を写した美しい両目が、今度は私に向いた。

彼にとってはきっと。私との“読書”は、とりとめのない出来事なのだろう。

私は、手中から旅立っていく本がひとつ、またひとつと増える度に思う。

いつか彼と読む本がなくなって、彼との“読書”の時間もなくなってしまうのではないか……と。


私はひとりで不安になってしまい、何故かどうしようもなく寂しくなっていた。



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