第8話 還らぬ波

「ふぅん?そいつはまた、難儀なことだねぇ……。」

「……おい。食べ過ぎだ」

「いけね。ついつい……今はもう、これ以上の情報は持ってねぇよ」

カラスはそう言いながらも、俺の鞄に消えるパンの袋を名残惜しそうにじっと見て、くちばしを尖らせた。


「おいらだって男だい。引き際はわかってらぁ……」と食い下がるカラスを、俺は横目で流す。


「ふふ。このパンがとってもお好きなんですね」

あいつがそう言った途端、しゅん、とわかりやすくへしゃげていたカラスが、「おうともさ!」と背筋を伸ばした。

「ここのお上さんには、ガキの頃に世話になってなぁ……」

おふくろの味ってやつさ。そう言ってカラスは、遠き港町の懐かしい思い出と口に残るパンの食感を噛み締める。


始まった。こいつは情報屋としては一流だが、一度語り始めると、貝のように固いはずのくちばしは日が暮れるまで閉じることはない。……今の内に別件を回ってくるか、と俺はそう決めて、連れ添いのあいつに「すぐ戻る」と告げてその場を去る。


「おいおい、旦那!姫さん置いてどこ行く気で……」

カラスがひき止めようとしたが男の姿はすでになく、潮風だけが私たちの間を優しく通り抜けた。


「大丈夫です。大体の居場所はわかりますから」

「そうかぁ?まぁ姫さんがそう思うなら何も言わねぇけどよ……」

そう言ったきり、女もカラスも静かに口を閉じ、ただ日を反射してきらきらと光る水面を眺めた。金平糖のように小さなきらめきは、バーのステージで浴びるスポットライトよりも眩しく見え、私は目を細めて瞬きをする。


「しかしまぁ、よく蜘蛛の旦那と旅できるなぁ。」

しばらくの沈黙の後、波の音に合わせてカラスが独り言のように呟いた。

「いや、おいらだって同業者として尊敬してるけどよ?怒ると怖いぞ?……いや、今も怒ってるな。」

「え?」

普段から感情の起伏が少なく、考えが読みづらいあの人。それは職業柄だと思っていたが、その彼が“怒っている”……?彼の静かな怒りの対象が気がかりで私はすぐカラスに尋ねたが、「それは旦那をよぉく見てればすぐにわかるさ。」と首を横に振るばかり。


「あんたも気を付けな?追っ手はすぐ近くまで来てるぜ」

「!!」

「姫さん。あんたはどうか……人の身を捨てずに生きてくれ」

遠い海を渡ってきたカラスはシンガーにそう言い残すと、漆黒の扇を左右に開き、楓色に染まりゆく雲の中へと飛び立っていった。

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