第19話 愉快なパティシエ

数分前まで闇市に居たはずのシンガーは、今息を切らしながら階段を掛け降りていた。優雅なエスカレーターも、広いはずの通路も人だらけ。踏んでつまずいてしまわないよう、左手でドレスの裾をつまみ、右手では小さなボックス鞄を持ち上げて。


「“万が一、《蛙財布》が逃げてしまった場合。その時は追い付くまで追いかけること”……これが闇市の鉄則だ」

「それは……いささか原始的ですね」

「確かに骨の折れる作業だが――簡単なことだ。《蛙財布》は、“持ち主を案内したいだけ”なのだから」


闇市で情報を売買するにあたり、シンガーの女が情報屋の男から聞いたのは、それだけだった。闇市では、市販の通貨を使用できないかわりに《蛙財布》と呼ばれる、蛙の手を模したコインの入った、蛙の姿をした財布が必要となるらしい。


ここまではまだシンガーも理解の内であったが、この《蛙財布》は驚くべきことに、跳ねる。そして逃げる。……つまり、“生きている”のである。その一跳びが、軽く七十はあるだろう石階段の山を、簡単に越えていくものだからますます気が遠くなる。更に悪いことに、情報屋の男が席を外していた時に、《蛙財布》が逃げ出したのだ。


どれだけ角を曲がり、どれだけの人だかりをかき分けた後だっただろう。シンガーはようやく、落ち着いた建物――駅の中にある、とあるパティスリーに迷い混んだ。ちりりんん、と早足のドアベルが聞こえると、目の前には色とりどりのケーキが並ぶショーケースが現れた。

「いらっしゃいませ。こちらのケーキですか?」

「あっ……!いえ、ケーキではなくて」

気まずそうに言葉を切ったシンガーを、パティシエの男は不思議なものを見るようにぱちり、とまばたきをして見つめていた。


「嗚呼!もしや、こちらの《蛙財布》ですね?」

「……はい!」

彩りあふれるケーキの数々が並ぶショーケースの中に、見慣れない侵入者を見つけたらしい。……とはいえ、当の侵入者蛙財布は、まぶしい水菓子の壁にぎっちりと囲まれて、すっかりその甘い匂いに酔いつぶれている。

「あまり連れ添いのレディを困らせるものではありませんよ?」

《蛙財布》はあっさりとパティシエの指に捕まって、グエ、と息苦しそうに低く鳴いた。


「以前にも、《蛙財布》が当店に来たことがあったような……?確か、紅茶用の湯につっこんで干物になった挙げ句、口が開かず中身が取り出せなくなってしまって」

うん、と小首を傾げながらもすらすらと話続ける、滑らかなチョコレートに似たパティシエの声音。しかしそれを耳にしていた二人――《蛙財布》とシンガーの顔は、どんどん青ざめていくばかりだ。もしも一歩間違えていたら、お互いどうなっていたか分からない。


「嗚呼。あまりキレイな話ではありませんでしたね?」

愉快なパティシエがそんな二人の様子に気付いて、ようやく。失礼致しました、と小さなお辞儀と共に話を終えた。ケーキの上に鎮座する鮮やかなフルーツのように笑う男に、《蛙財布》とシンガーはただただ安堵した。何事もなく、この店に辿り着けたことに。


「さあさあ、どうぞ。お好きな椅子にお掛け下さい。当店自慢の一杯とケーキを、戯れ話も添えてごちそう致します」

ほっ、と一息ついて間もなく。パティシエの男の手は、実に指揮者のように踊る。パティシエの指にやさしく捕まっていた《蛙財布》は、ぽちゃむ、と近くに置かれた水のグラスに離される。シンガーはというと、何故か両手で抱えるほどの花束とあたたかな拍手の祝福を受け、空いている席――店の中ほどまで案内される。


「……なかなか戻らないから、俺の元まで“案内”してきたのか。心配症だな」

行き着いたテーブル席には、見知った男――情報屋の男が静かに座っており、シンガーの顔は驚きと恥ずかしさにみるみる赤く熟れていった。

「大事なお連れさまでしょう?」

パティシエの弾む言葉に合わせて、《蛙財布》も遠くからグエ、と鳴いた。

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