第26話 森の断罪

――誰だ。剣の舞曲を響かせているのは。


ある男が、脳裏に届く不吉な鐘の音に足を止めたとき、隣の男は激しく怒った。

「っ!おい!止まるな!“奴ら”の獲物になるつもりか!?」

「……!」

「……くそ!さっきから、妙な音が聞こえやがる」


そうだ。自分よりも、この男の方が断然耳が良い。森を飛び交う弓が火の粉を散らす、熱風も。逃げ場もなくさ迷いぶつかる、獣の惑い声も。そして、もう何日も続く戦いの中で狂い始めた、理性を保つ血脈の鼓動も。全て鼓膜に流れ込んできている。


「……分が悪すぎて、頭が痛てえ」

「うかつだったわね……もうすっかり、敵の根城の中だわ」

いらだちながら耳を塞ぐ男の側で、女の潜められた声が消えていく。


「主」

「大丈夫。立てるよ」

背の高い従者が身を屈めて手を差し出すが、立ち止まっていた男は、破れた手のひらでそれを制した。そうして、くるりと後ろを向き直ると、止まない頭痛に苦しむ男の姿に目を細めた。

「……ごめん、長居しすぎたね」

「……ひとつ貸しだからな?相棒」

にぃ、と不敵な笑みを浮かべる男に、相棒と呼ばれた男は“よかった、元気そうだね”とあっさり返した。


「おまえさんと長くつるんでちゃあ、悪運も強くなるさ」

「……東の方、何が居る?」

「魔術師だな。けしかけてくるぞ」

「踏みにじるのならば、斬り捨てるさ」

「……やれやれ。簡単に言ってくれるねぇ」


そうだ。自分よりも、この男の方が断然頭がキレる。おまけに強い。強靭な力を、棒のように振り回すような真似もしない。一族の長になるまで、ふらふらと自由の身であったことが嘘のようだ。男なりに、村やその周囲を、世界を見通していたのだろう。


「……《皆さん》とは、ここでお別れですね」

従者が、どこか名残惜しそうに、背後のやさしい影の虚像を見上げて言った。そこには、人の身の丈など遥かに越える、太古からそびえる搭のような竜の血族――その生き残りがいた。


「……君とは、もっと話をしたかったけれど」

「――仕方あるまい、これも運命。力があろうとも守れず、そして――情があるほど相容れぬ」

主と呼ばれた小さな王と、幾億年を見つめてきた竜の王。

このささやかな会合が、もしも血で塗り固められた森でなかったのならば。互いの背に、曲がりの矢が飛んでくるような時でなかったのならば。共に火を囲み、食事をし、夜が終わるまで酒と話を交わしていただろうに。


「“星”の蛇が夜明けを告げたのならば、我らも向かわねば」

瞬間。暗がりの主の目に、かちり、と隅から光が覗く。自分の知らないところで、まっさらな紙が砂のように燃えていくようだと、主たる男は思った。竜の群れが飛び立ち、自分たちを防いでいた影が消えたのだ。


――日の目は、こんなにも眩しかっただろうか。熱を帯びていただろうか。

知っているはずの感覚に、ぐらりと酔ってしまうような錯覚。村の集落で何かが起きたのだ、と小さな王は悟った。


「――朝だわ」

霧かかる朝もやの中で一羽の鳥がさえずるように、女が言った。すぅっと流れていく空の色、途切れ途切れに続く雲の楽譜が、鏡に似た女の黒髪に映る。


「相棒」

「……行こう」

主の脳裏で奏でられる白い火の旋律は、弱まるどころか、加速していた。


「奥方さま。少し休まれた方が……」

「ありがとう。でも、予感がするの。――もうすぐ、あのひとが帰ってくると」

傍らの神官がそう切り出すと、相手の女性は堂々たる笑顔はそのままに、首を左右に振り断った。額に刻まれた焼き印が、金糸の髪の下で見え隠れする。


「それまで、ここを」

瞬間。やわらかな花の匂いが、一筋の矢に焦がされた。


……



……ここで日記は終わっているようだった。年月を重ね、丁寧に織られてきた文字が初めて、何かで歪んでいた。

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