第27話 黒の報酬

「君はまるで、さかさまの水溜まりだね」

黒い客は、長い爪で自分の頬を刺しながら、ふぅん、と特別なことでもないように男に言った。


「渇いて消えて、いつかなくなって。でも、雨が降ればまた人知れず現れているんだ。――色の違う目で、何かが動くのをじっと見てる」

「……“この前”とは違うことを言うんだな」

「ふふ、当たってるだろう?そりゃあそうさ。ひとなんて、会うたびに変わるよ」

面白くて仕方ない、といった様子でくすくすと笑う黒い客を、向かいの男は静かに見つめていた。


すると隣から、はぁ、と力のないため息と共にがたり、と椅子を引く音が聞こえてくる。黄金色のウイスキーを片手に携えて、バーテンダーが座ったのだ。

「占いねえ……俺にゃ縁のない話さ」

「僕のお得意様だもの。言ってくれればいつでも大歓迎さ」

黒がぱっと椅子から立ち上がって言うと、“悪いが遠慮しとくぜ”と実にあっさりとした返事が返される。


「俺の店が賑わうのは――馴染みの客が来るっつうのは嬉しいが、」

「“面倒事は持ち込むな”……だよね」

「……もう、店で死人は出したくねえ。それだけさ」

濁された、というよりも、あえて切られた言葉の続きを、黒の占い師は知っていた。声を潜めて、実体とも呼べない煙の体を、すっと更に夜に紛れさせるように。ただ一言だけを引き継いで、口を閉じた。


その二つ隣のカウンター席で、ぐい、とバーテンダーがウイスキーを口に含む。バーテンダーだって、“この前”まではこの類いの軽口や面倒事は何てことなかった。むしろ面白いと興味を抱いていたし、積極的に受け入れてきた。自分の店を持ってからはそれが顕著になり、基本、来るもの拒まず、去るもの追わずの立ち位置をキープしてきた。


『怖くてたまらないの。……少しだけ、勇気をちょうだい』

いつもなら、表情ひとつ変えずにステージに上がる白い舞踏人形が、自分の目の前で壊れていくのを見たあの日までは。ずっとずっと、味のない煙を食べるかのように、すぐに黒ずんでいく煙草をくわえて歩いてきた。


らしくない、とバーテンダーは純粋に思った。人前で歌うことが何よりの喜びであるはずの彼女が、それを拒むように――臆する様子が。そうして、いつも何処かさみしそうに笑う横顔が、いっそう影に照らされていることも。


「――何が怖いんだ?人の目か、そこに映るアンタか、」

「……」

「おい」

「……わたし、まだちゃんと人の姿をしてる?」

言葉での返事では彼女の質問に上手く答えられない、と感じたバーテンダーは、自分よりも小さな少女の体を何のためらいもなくぎゅっと両腕におさめた。

――瞬間、悟った。


「こんなに小さかったか」

「わたし、背はそんなに大きくないわ。それに」

隠し事が苦手なくせに話をそらそうとするところが、実に少女らしかった。こんなにも“自分”の存在が他人の内側に入り込んでいることに、少女は気付いてすらいない。


「違うだろ、アンタの音は、こんなに小さくなかった」

「……っ」

客と賭け事をする前、淡々と、手札のカードを裏返しで並べていくように。そうして、一つずつ表に返し、明らかにしていくように。びりり、と少女の嘘を容易く破る。バーテンダーの指先から、鋭く電気が駆け巡った。


「……ごめんなさい」

内側で痛みを伴うほどに怒っていながら、表には一切出さない男を目の当たりにして、少女はたじろいだ。


「始まりがどんなに小さくたって、重ねるうちに、続けるうちに、逃げられなくなっちまう。いつか、“同じ”だったそれ、“当たり前”だったそれが崩れたとき。――目の前にある光が、怖くなる」

手元のウイスキーグラスがすっかり空っぽになり、バーテンダーがふと冷たい懐に手をやるものの、つかまれた煙草が顔を出すことはなかった。


「……誰だって、“きらきらしたもの”が大好きだもの。“それ”が何か、“それ”が自分の目にどれぐらい大きく映ってるか――ちゃんと知ってるひとは少ないよ。ねえ?」

「そうだな」

黒い客が、小さく降り始めた雨粒のように呟いた。そして、客の隣で冷や水を飲んでいた情報屋は、珍しくはっきりと頷いた。


「おまえの“読み”は、よく当たってる」

情報屋がくるりと左を向き、バーテンダーに“約束の報酬”を見せると、男は喜びに目を細め、要求した。

「……次は、お嬢さんを連れてきな」

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