第29話 二人と鏡
甘くないと気がすまない。きっとボクは、そんな願いを抱いているから、“星”が消えるときにも、ぎゅっと大事に抱え込んだまま行くだろう。
《……それ、全部食べるの?》
「そうだよ」
《彼女》は、驚いていた。いつぶりかわからない、ボクと二人きりの空間と時間。そして、テーブルの上に並べられたまぶしい装いの、白いクリームを抱いたケーキの行列に。
つぷ、と銀のフォークでつつけば、柔らかなものははらりとほどけ、芯のあるものは逆に銀を噛み、離すまいと動かなくなる。皿の上で寝かされたガトーショコラにボクがフォークを伸ばしたときだったか、《彼女》はようやく紅茶を楽しんでいた右手を休め、菓子の山から一つを選び取った。
手に触れていなければ、《彼女》の思うことはわからない。それが、もどかしくもあり、程よくもある。少女にとって《彼女》は、俗にいう“雲の上のひと”だ。実際、《彼女》の手を取って二人だけで会話をするとき、銀の少女はとても緊張する。
潮の満ち引きに似た、美しく影を含んだ声音。ふとした仕草に揺れる、星灯りを映したロングウェーブの髪。手のひらからこぼれる光のように、大切な記憶をとじこめた翡翠の瞳。その全てが、今、自分に向けられている。
「――ダメだね」
ぐしゃり、と少女は苦い顔をして、渋いベリーの実を飲み込んだ。胸の内から、果ては口からでかかった言葉を、紙くずのように丸めてつぶしてしまった。
「話そうと思ってたこと、忘れちゃった」
まるで、“雨が降ってきたね”と他愛もなく話すときと同じだ。受け取る《彼女》も、さほど気にしていない様に見える。
銀の少女は、テーブルという名の宝石箱にぎっしりと詰まった、魅惑の果実たちを一望する。そうして多くを集めて、並べて、眺めたら。自分の目の前と、視界の先、手の中に収めたなら。どんなに満たされるだろうと夢を膨らませていたのに、違った。
膨らんでいくのは腹の虫と、曇りの種だけ。《彼女》が選んで、少しずつ食しているラム酒の――ブランデーケーキの匂いが鼻先から入り込んで、ツンとする。それだけで酔ってしまいそうなのに、目の前のひとは。
《思い出したらで、いいのよ》
きゅっと捕まった指先からそう聞こえてきて、ボクは言葉に詰まる。彼女はボクに微笑んだ後で、ぼんやりと、黒い窓の外を眺めている。
例えその先が何もない、冷たくざらついた風だけが過ぎる、ひとを知らない荒野だったとしても。色と光を吸い込んでゆらゆらと美しいのに、窮屈に映る海の庭でも。
彼女にとっては、何の壁にもならないのだ。ただそこに“それら”があることを、じっと傍観して時間を過ごすだけだ。
安心を含んだやわらかな眼差しが、ボクの眼中に突き刺さる。どうして。どうしてそんなにやさしい目で、ひとを見るのだろう。どんな色とも混ざりあえる白が、心の曇りをゆるやかにさらっていくように。
――《◇◇◇》の大事な家族を傷付けているのは、ボクと、ボクの兄貴なのに。
嘘をつけない《彼女》の言葉は、本当だ。ボクはいつからか、大好きな自分のきょうだい――唯一の肉親でもある兄のことを、信じられなくなった。
“先”に落ちた自分を追って、兄が“星”になったのを教授の口から告げられた瞬間から。突然、今まで満ちていた“一緒にいられる喜び”よりもずっと、おぞましいものが体の中を渦巻いた。兄は妹の死を理由にして、自ら夜の底へと落ちたのだ。
――ひとえに、妹の自分を大事に思っているからなのだと、納得できてしまえばどんなに良かったか。
それまで二人でひとつだった食事の席も、寝床も。目に見える、形あるものからバラバラになっていった。突然、世界の半分が、冷たくて空っぽの夜になった。熱のない豆電球を眺めながら、何処へ行っても気の紛れない心をコロコロ転がして過ごした。
いつまでも離れずに、一緒にいるあの二人が――情報屋とシンガーが羨ましくて。妹は悪戯な遊びのように、情報屋の男を剣で突き刺した。
「……そうだ、“あのとき”」
男は、戦いの最中に少女の首をしめていたリボンを引き抜いた。二度めも、やはりそうだった。
――ボクは、何に縛られていたのだろう。
答えの見えない月夜に、星は隠れた。
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