35 駆け出す恋心④

 我が家の一部屋はありそうな大きな玄関に入ると、上がり框に着物姿の女性が手をついて正座していた。

「鷹能坊ちゃま。おかえりなさいませ」

「ただいま。直子さん、こちらが知華だ。以後よろしく頼む」


 鷹能先輩がその女性に声をかけた後、私の方を向く。

「知華。彼女は武本の奥さん、直子さんだ」

「知華さま、初めまして。以後よろしくお願いいたします。何かお困りのことがございましたらいつでもお声かけくださいませね?」

「こっ、こちらこそよろしくお願いします!」


 穏やかな笑顔にほっとする。

 この方が武本夫人で、海斗のお母さんか。

 武本夫妻は二人揃って上品で紳士淑女って感じなのに、息子の海斗はどうしてああも直情型で攻撃的なんだろう。


「父上と母上は?」

「プライベートダイニングでお待ちです」

「わかった」


 直子さんはすっと立ち上がると、私達を案内するように前を歩き始めた。その後ろを鷹能先輩が悠然と歩き、おずおずと私が続く。

 長い廊下の両脇は立派な襖がずらりと並んでいて、いかにもお武家さまのお屋敷といった趣きで時代がかっている。


 廊下を右に曲がると外へ出る扉があって、直子さんが開けてくれた。ライトアップされた日本庭園を眺めながら渡り廊下を歩くと、今度は外国のお屋敷のような洋館へと入った。

 長い廊下に赤い絨毯が敷かれ、シャンデリアがオレンジ色の光を放ちながら華やかに煌めく。


「先ほどの本館には客間や応接間などがあるが、普段の家族の居住スペースはこちらの洋館になる」

 鷹能先輩が歩くペースを緩めて隣に並び、そう説明してくれる。


「先輩は勘当同然で家を出されたって言ってましたけど、時々おうちに帰ってるんですか?」

「盆と正月など、先祖代々受け継がれてきた年中行事がある時には戻っている。だが、今の俺のホームはうんりょーだ。うんりょーで知華とおにぎりを食べている時が一番ほっとする」

 このお屋敷に馴染んでいる鷹能先輩を少し遠く感じていたけれど、直子さんに聞こえないように囁く先輩はいつもどおりの雰囲気で、がちがちに固まっていた心がちょっとほぐれたような気がする。


 廊下の一番奥まで進むと、分厚そうな立派なドアを直子さんがノックした。

「鷹能さま、知華さまがお見えになりました」


「どうぞ」

 奥から男性の声が返ってきたのを合図に、直子さんがドアをゆっくりと開ける。


 緊張度MAX。

 この中に鷹能先輩のご両親がいらっしゃるんだ。


 大丈夫だ、という眼差しを私に送り、先輩が部屋の入口で一礼する。


「父上、ご無沙汰しております。ただいま戻りました」


「ああ、おかえり」


 先輩によく似た低い声が、開いたドアの向こうからはっきりと聞こえてくる。

 似ているけれど、年齢を重ねた分渋みを増した声。

 姿かたちも先輩に似ているのだろうか。


「本日は後輩の星山知華さんをお連れしておりますのでご紹介させていただきます」


 自分の父親に対してなのに、ものすごく堅苦しい物言いをする先輩の様子に、緊張がどんどん増していく。


「知華」と促され、カチコチのまま歩みを進める。

 入口に立った途端に深く頭を下げた。


「はっ、初めまして! 藤華学園高校一年の星山知華と申ししますっ!」


 一息で言い切って、顔を上げる。

 私の前方、大きなテーブルを隔てて奥に座る人物と目が合った。



 そこにいたのは───



 …………。



 えっ……と。



 ……どこのジローラモさんですか?



「ああ、君が知華ちゃんかぁ! いらっしゃい。よく来たね!」


 瞳が眉にくっつきそうなくらいにギロリと上目遣いをさせていたおじさまが破顔して立ち上がる。

 日本人があまり着ないような大きなチェック模様の濃紺ジャケットに、薄いピンク色のシャツは第二ボタンまで外されている。

 首に掛けられたストールはすとんと下へ垂れていて、今から眠らない街にでも繰り出しそうな雰囲気だ。


 本当にこの方が紫藤家の当主で、鷹能先輩のお父様で間違いないんだよね……?


 呆然と立ち尽くす私の横で、鷹能先輩がふうっとため息を吐いた。


「やはり驚かせてしまったようだな。彼こそが俺の父であり、紫藤家第二十七代目当主、紫藤鷹麗たかつぐだ」

「驚かせたなんて心外だなぁ。僕は今どきどこにでもいるちょいワルなおじさんだよ。よっしーこそ若者のくせに堅苦しすぎるんだよ。実の父親なんだから、もっとフレンドリーに接してくれたっていいのにさ」

「俺は隠居していたお祖父様に厳しく躾られましたからね。誰の前でもこれが自然体なんです」


 口を尖らせるお父様に半ば呆れ顔の先輩がそう返すと、お父さんは先輩と同じ切れ長の瞳を丸くして大げさに驚いて見せた。


「それが自然体だって!? じゃあよっしーは知華ちゃんの前でもそんな堅苦しい感じなのかい? バブみを感じてオギャったりしないの? 」

「……は? まったく意味がわかりませんが」

「おかしいよなぁー。僕とエミちゃんの愛の結晶なのに、よっしーにはアモーレが足りないんじゃないの?」


 バブみ?

 アモーレ?


 鷹能先輩のお父様の口から出たとは思えない言葉に私も呆然としていたときだった。


Fantastico! 素敵 Che carinaなんて可愛い, questa bambina!女の子なの


 外国語らしき声が聞こえたかと思うと、背後から誰かに抱きつかれた!


「きゃあっ!?」

「母上!!」


 驚いた私が叫んだのとほぼ同時に鷹能先輩が振り返った。


「えっ!? はは……?」


 胸元に絡まる腕が解かれて振り向くと、そこに立っていたのはモデルさんのようにスラリと美しい外国人女性だった。


「ごめんなさいネ。ちょうどお手洗いに行っていたノ。あなたが知華ちゃんネ? タカヨシがいつもお世話になっております」


「知華、こちらが母のエミリアーナだ。イタリア出身だが、すでに日本に帰化している」

「あっ、は、はじめましてボンジョルノ」


 もはや思考が追いつかず、とりあえず知っているイタリア語が口をついて出た。

 私が置かれている状況ってどんな感じだったっけ?

 確か、海斗の告げ口で私の存在を知った鷹能先輩のご両親に面会を求められて今ここにいるんだよね?


 けれど今目の前にいるのは、ちょいワルなおじさまと超美人なイタリア系ご婦人。

 ちなみに雰囲気は結構な歓迎モード。

 想像していた展開と随分かけ離れているんですけど!?


 お母様は満面の笑顔のまま私から離れて鷹能先輩と頬を合わせながらハグをし、お父様の隣の席へと向かうと「お待たせ、アモーレ」と軽くキスを交わして席についた。


 先輩がいきなり手を繋いだり肩を抱き寄せたり、硬派な印象の割にスキンシップが積極的なのはお母さんがイタリア系だからだろう。

 完璧な調和を体現する先輩は、ギリシャじゃなくてローマ彫刻だったのか。


「知華、俺達はこちらに」

 先輩に椅子を引かれ、お父様の九十度横に立つ先輩の隣に座る。

 いつの間にか武本夫人の直子さんは下がっていて、メイドさんらしき女性が給仕を始めた。


「本日父上達が知華との面会を希望された件についてですが……」


 ご両親のグラスにワイン、私達のグラスに葡萄ジュースが注がれ、乾杯の準備が整った時に鷹能先輩がおもむろに口を開いた。


「僕に彼女と結婚する意志があるということをご承知の上でお呼びになったということですよね。僕としては本日この場で婚約を認めていただき、成人の儀に向けて具体的な準備を進めていきたいのですが」


 単刀直入にそう切り込んだ先輩に、ワイングラスに手を掛けたお父様が悪戯っぽく口角を上げて見せる。


「僕はね、海斗カイ君から話を聞いて、君の心の琴線に触れた女の子にぜひ会ってみたいと思ったんだよ」

「ご覧の通り、知華はとても純粋で可愛らしい女性です。ですが僕はそんな彼女が内に秘める芯の強さに魅かれました。ですから、父上や母上が彼女に好感を持ってくださるならばぜひ……」

「まあそう焦らなくてもいいじゃない。ビジネスじゃないんだから、会話はゆっくりと楽しまなくちゃ。ね、エリちゃん?」


 お父様に微笑みを向けられたお母様は、静かな笑みをたたえてゆっくりと頷く。


「そうネ。タカヨシにはこの機会に伝えなくてはならないことがありますし。私とpapàパパには苦い過去ですが、今のあなた達に知っておいて欲しいことヨ」


「そういうことだから、まずは乾杯して食事を始めようよ」


 ご両親に合わせ、僅かに眉を歪ませた鷹能先輩がグラスを掲げる。

 それに倣って目の前に掲げたグラスには、増幅する不安をかき混ぜたような赤紫色の液体が揺らめいていた。

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