31 一進一退の恋心③

 半月にわたり、私を毎朝駅まで迎えに来てくれている鷹能先輩。

 海斗の言葉は、そんな先輩の言動を誠意と好意からくるものだと受け止めていた私を容赦なく否定するものだった。


「タカちゃんは、紫藤家の嫡男、紫藤グループの後継者って重圧を常に背負ってる。そんな中で旧体質の家柄への反抗心が芽生えるのは当然だろ? その矛先が唯一自分の自由になる可能性の残された結婚に向いているだけなんだよ」


 反論しようと顔を上げて、捨てられた子猫のように縮こまって泣いている志桜里さんを見たら言葉に詰まった。


 こんなに傷ついている人を前に、先輩の気持ちが自分に向いているなんて宣言するのは、ひどく傲慢で残酷な行為だ。


 心の武装がさらに剥がされた。

 ノーガードの私に、海斗は容赦なくコンボを決めてくる。


「自分としいちゃんを比べてみなよ。彼女はタカちゃんと家柄の釣り合う名家のお嬢様だ。二人が並べばため息が漏れるほどの美男美女カップルだし、しいちゃんは性格だって本当に優しくて心の綺麗なひとなんだ。タカちゃんが彼女を嫌う理由なんてどこにもない。実際、タカちゃんがお父上から結婚の話を持ち出される前は、二人はすごく仲良しだったんだ」


「もうやめて…………」


 降伏の言葉が洩れかけたとき、海斗の言葉を呻くように遮ったのは志桜里さんの方だった。


「カイちゃん、もうそれ以上は……。タカちゃんの気持ちは彼にしかわかりません。わたくしは……知華さんに、そんなことを伝えたいわけでは……」


 ぽろぽろと涙を零し、言葉を詰まらせながらも海斗を制する志桜里さん。

 そんな彼女を見て、海斗が口を噤んで拗ねたようにそっぽを向いた。


 お客さんもまばらな店内で、有線で流れるボサノバに彼女のすすり泣く音が溶け合っていく。


 しばらくして少し気持ちが落ち着いたのか、涙で濡れたまつ毛をしばたかせた彼女が、躊躇いがちに顔を上げた。


「カイちゃんは直情的な性格なのです。幼馴染みのわたくしのことを心配しての言葉なのですが、知華さんを傷つけるようなことを申し上げて本当にすみません」

 テーブルに額がつくほど頭を下げられて、「いえ……」とだけ声を絞り出す。


「ただ、彼の言うとおり、タカちゃんとわたくしはある時期までは幼馴染みとしてとても良好な関係を築いておりました。タカちゃんのお嫁さんになりたいというのは幼い頃からのわたくしの夢で、それならば、と紫藤の家のご事情を知る父が紫藤のおじ様に婚約の話を持ちかけてくれました。わたくしはもう天にも上るような気持ちで、早く彼のお嫁さんになりたいと願っていたことは事実です」


 紫藤家の嫡男は十八歳の成人の儀で婚約するのがならわしだと、鷹能先輩は確かにそう言っていた。

 それぞれの両親からすれば、家柄も釣り合い、仲睦まじい二人が婚約することは望ましいことだったに違いない。

 けれども、先輩に婚約の予定を伝えたところ、彼はそれを拒否した。

 てっきり話がまとまると思っていた周囲が戸惑うのは無理のないことのような気がする。


「けれども、婚約の話を聞いたタカちゃんはそれを受け入れられないとおっしゃいました。それが原因でお父上から勘当同然で家を出され、大変な苦労を強いられたのです。婚約を拒否されたことがとてもショックで、わたくしはしばらく泣き暮らしておりましたが、タカちゃんが紫藤の家を出されたと聞き、何か力になれないだろうかとわたくしなりに考えました。けれども子どものわたくしにできることなど僅かにもなく、それならばせめてわたくしがタカちゃんに好まれる女性となることで彼が婚約を思い直してくれれば、お父上から許しを得られるのではないか……。そんな風に考えたわたくしは、彼に相応しい女性となるべくこれまで努力してまいりました」


 鷹能先輩に好まれる女性になる────

 彼女の溢れる気品や美しさは、生来授かったものだけでつくられたものではないんだ。

 彼女は鷹能先輩を何年も思い続け、先輩のために何年もかけて自分を磨いてきた。

 確かに、そんなひとと比べて自分の方が先輩に相応しいだなんて、欠片も思うことなんかできない。


「それでもタカちゃんの目がわたくしに向いてくれることはありませんでしたが、わたくしはそれでも信じておりました。幼い頃に見せてくれていたタカちゃんの好意や優しさを心の拠り所として、十八歳になれば彼は紫藤の家に戻ってくる、その時に婚約者として彼の横に立つのはわたくしなのだと。……知華さん、あなたが彼の前に現れるまでは……」


 そう言って私を見つめた大きなアーモンドアイに再び涙の膜が張られた。

 それの零れるところを見てしまえば余計に心が縮こまりそうで、かと言って未だに足掻く私は彼女から目をそらすこともできない。


「カイちゃんからは、去年の夏、剣道の大会でタカちゃんが珍しく一人の女性に目をとめて応援していたと聞きました。胸騒ぎを覚えましたが、それ以降そのひとと接触している様子はないと聞き安心しておりました。けれどもこの春、その女性がタカちゃんの通う高校に入学したと聞き、運命のいたずらかと衝撃を受けました。そしてやはり……タカちゃんはあなたを見つけてしまいました」


 鷹能先輩と同じ高校に入学してきたことを、先輩は “縁” だと言っていた。

 けれども志桜里さんにとっては、私たちの邂逅は残酷な “運命のいたずら” だった。

 志桜里さんの立場からすれば、自分に非があるわけではないのに先輩の心がますます離れていくようで、心がちぎれそうなくらい辛かったに違いない。


 息苦しくて、思わず夏服のシャツの胸元をぎゅっと握りしめた。

 志桜里さんの独白はまだ続くようだった。


「さあちゃん……咲綾さんから藤歌祭の吹奏楽部ステージの時間を聞いたわたくしは、タカちゃん会いたさに拝聴に駆けつけました。けれどもやはり彼には取り付く島もなく……。その上彼はわたくしの目の前であなたの手を引いて去ってしまいました。とても……とても、辛かった……」


 最後は消え入りそうな声を震わせて、彼女は再び俯いた。

 膝の上で握りしめた拳にぽたぽたと雫が落ちる。


「これでわかったろう? しいちゃんからしたら、ずっとタカちゃんのことを思い続けて結婚相手から一番近いところに居ようと努力したのに、急にアンタが現れてタカちゃんの心を惑わせたんだ。婚約はなかったことにして金輪際会わないなんて、一方的に告げられたって納得できるわけないんだよ」


 言葉を詰まらせた志桜里さんを見遣りながら、海斗が語気を鋭く尖らせ私を攻め立てる。


 罪悪感が心に広がっていく。

 黒くねっとりした感情に飲まれそうになった時、桜色の微笑みをたたえた鷹能先輩がこちらへ腕を伸ばしている姿が思い浮かんだ。


 ああ、そうだ────


 鷹能先輩は、壁の手前で蹲っていじけていた私の手を取り引き寄せてくれた。

 私の苦しみも懐疑も、自分が全て引き受けると言ってくれた。


 コールタールのような感情に私が飲み込まれたって、がっちりと私を掴むその手は引き上げることを諦めないだろう。


 だったら私が一方的に諦めちゃだめだ。


 押し潰されそうだった胸に空気をいっぱい吸い込んで、私は目の前の二人を真っ直ぐに見据えた。


「確かに、志桜里さんの立場での苦しみや納得できない気持ちはよくわかりました。先輩にもう会わないと一方的に告げられたって、それを受け入れられないのは当然のことだと思います。……でもそれは私の立場でも同じです。先輩以外の人から身を引けと一方的に言われたって受け入れることはできません。私は先輩のことを信じてますから」


 俯いたままの志桜里さんの肩が震えている。

 その横で、敵意を一層研ぎ澄ました海斗が殺気すら感じるほどの眼差しを向けてくる。


 ぬるくなったコーヒーをブラックのまま一気に飲み干すと、私は毅然と立ち上がった。


「このまま話しても今日は平行線だと思うので帰ります」


 店を出るなり改札まで走り、そこでようやく息を吐いた。


 臨戦態勢を解いた途端、コーヒー代を置いてくるのを忘れていたことに気づいたけれど、さすがに戻るほどの度胸もなくて、ホームに駆け込むなり到着した電車に迷うことなく乗り込んだ。

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