第三楽章 綺想曲 ~ただひたすらに君を想う~

26 立ち往生する恋心①

 藤歌祭が終了し、出欠確認のためのHRホームルームを終えた部員達がうんりょーに置いた荷物を持って帰宅した後。

 私は鷹能先輩と二人、ボーン部屋でコーヒーを飲んでいた。


 先輩は先ほど “志桜里しおり” と呼んだ美少女と対面してから、心を閉ざしてしまったかのように無機質になってしまっている。

 「話があるからこのままうんりょーに残ってほしい」と言われたのに、そんな先輩を前にすると結局私からは何も尋ねることができないまま、淹れてもらったコーヒーをちびりちびりと口に含み続けている。


 無機質な表情の先輩から最初に語られるのは、約束していた “先輩の事情” についてのことなのか、それとも先ほど会った志桜里さんというひとの話なのか。


 のしかかる沈黙に息が詰まりそうで、当たり障りのない今日のステージの話題でも出そうかと口を開いたときだった。

 ボーン部屋の窓越しに、合図のように短く鳴らす車のクラクションが聞こえてきた。


「どうやら来たようだ」と先輩が立ち上がる。

「実は今日、知華に会わせたい人物がここに来る。一緒に外に出て彼に会ってほしい」


 夕闇の中、大きな手提げ袋を肩に掛けた先輩に促されるまま、青雲寮の横にある小さな空き地へと出た。

 学校の敷地の角にある空き地には道路に出るための小さな門扉があり、その向こうにハザードをつけた一台の車が停まっているのが見える。

 先輩と一緒にその車に近づくと、有名な外車のエンブレムのついた黒塗りの車の両脇から二人の男性が降りてきた。


「鷹能さま。お待たせいたしました」

 少し離れた街灯の明かりにぼんやりと照らされたスーツ姿の男性がうやうやしく頭を下げる。

 上品な立ち居振る舞いの白髪混じりのナイスミドルに向かって先輩が「うむ」と威厳溢れる相槌を打つ。


 違和感のあるそのやり取りに首を傾げると、助手席から降りてきた小柄な少年が先輩に飛びかからんばかりに駆け寄ってきて「タカちゃん、久しぶりっ!」とフレンドリーな笑顔を見せた。


 あれ? この人、どこかで見たことある……。

 さらに首を傾げると「なんだ。海斗も来たのか」という先輩の親しげな声が耳に入ってきて、私は思わず「あ」と声を上げた。


 この人、藤央とうおう中の剣道部の主将だった人だ!

 名前は確か……武本海斗。

 この地区では強くて有名で、中体連では県大会で優勝して全国大会進出を果たしていたはず。


 声を上げた私をぱっちりとした二重の目元で眇めるように睨みつけると、武本海斗は高めのハスキーボイスで私に尋ねた。


「あんた……。去年の夏、タカちゃんが東部大会で応援していた藤北二中の星山だろ? なんであんたがここにいるんだよ?」

「そういうあなたこそ、鷹能先輩と知り合いなの?」


 不躾な態度にちょっとカチンときた私が尋ね返すと、隣に立つ鷹能先輩がフォローに入った。

「武本海斗は俺の幼馴染みだ。彼の応援のために駆けつけた東部地区大会で、俺は知華を見つけたのだ」

 先輩は私の肩にぽん、と手を置くと、ナイスミドルと武本海斗が並ぶ方へと向き直った。


「武本、紹介しよう。彼女の名は星山知華。この高校では俺と同じ吹奏楽部に所属している」

 続いて私の方に顔を向け、穏やかな笑みを浮かべるナイスミドルを紹介した。


「知華。彼、武本浩一郎は海斗の父親だ。彼には俺が幼い頃から世話になっているが、現在はうんりょーで暮らす俺の生活を様々な面でサポートしてくれている」


 お世話になっている幼馴染みのお父さんを苗字で呼び捨てする先輩。

 親子ほど年の離れた目上の人なのに、先輩の立ち居振る舞いはその人よりもずっと威厳があるし、武本さんもそんな鷹能先輩に最大限の敬意を払っているように見える。

 なんだかまるで主人と家来のような雰囲気だ。


 武本さんが紳士的な笑みをたたえたまま「はじめまして」と会釈し、我に返った私も慌ててぺこりと頭を下げた。


「武本。知華を今日ここに同行させたのは他でもない。まずは彼女をお前に紹介し、その上で両親に会わせたいと考えているのだ」


 鷹能先輩と武本さんのやり取りが、整理のつかない頭の中をさらにごちゃごちゃとかき混ぜる。

 先輩には、別の場所で暮らす両親がいるってこと?

 どうして先輩は一人でうんりょーに住んで、ご両親ではなく幼馴染みのお父さんにサポートしてもらっているんだろう?


「左様でございますか。鷹能さまがご決断なされたことならば、この武本、全力でお支えいたします。では早速ご両親との面会の手配をいたし……」

「ちょっと待ってよ! それってどういうことだよっ!?」


 先輩と武本さんの会話に、海斗が声を荒らげながら割って入ってきた。


「旦那様と奥様にこの女を会わせるってことは、タカちゃんに結婚の意志があるってことだろ!? しいちゃんはどうするんだよ!?」


 けけけけけけけ結婚んんっ!!?


 突如飛び出たパワーワードに、与えられた情報を整理しようと必死で働かせていた思考回路が完全に破壊される。

 そんな私の状況に構うことなく、先輩と海斗は目の前で口論を始めた。動作停止中にもかかわらず、私の脳には彼らの口から飛び出す重要情報が無理やりねじ込まれていく。


「志桜里とのことは俺は初めから受け入れていないし、両親にも受け入れる意志がないことは伝えてある。俺と知華との結婚が認められれば水無瀬みなせの家とも正式に話ができるし、志桜里を解放してやれる」

「解放って何だよ!? しいちゃんがそれを望んでるはずがないだろう? しいちゃんはずっとタカちゃんのお嫁さんになることを夢見てきたのに……!」」


 呆然と立ち尽くす私を、海斗がきっと睨みつける。


「俺はこんな女、絶対に認めない! どうせ紫藤グループの後継者っていうタカちゃんの肩書きに寄ってきた虫みたいなものだろう?」

「海斗! いい加減にしろ! 知華には俺のことはまだ何も話していない。彼女を侮辱することは俺が許さん」

「海斗! 将来お前がお仕えすることになるかもしれない女性に何という暴言を吐くのだ!」


 厳然と言い放つ鷹能先輩と息子を強く諌める武本さんに気圧されて、海斗が一歩後ずさりする。


「とにかく……っ! こんな女に仕えるのは俺は絶対に嫌だ! タカちゃんの嫁はしいちゃんでなきゃダメなんだからな!」


 吐き捨てるようにそう言って私をもう一度睨みつけると、海斗は踵を返して車へと戻っていった。

 バンッ! と乱暴な音を立てて助手席のドアが閉まる。


「鷹能さま。知華さま。愚息が大変な失礼をいたしまして、本当に申し訳ございません」

 深く頭を下げる武本さんに、先輩は穏やかに声をかける。

「いや。今日は海斗まで来るとは思わなかったから、俺の方も事前の根回しが足りなかった。……もっとも、あいつがあそこまで志桜里の肩をもつとは思わなかったがな」

「海斗は志桜里さまとも幼少期からよく遊んでいただいておりましたので、お二人を心から敬愛しておるのでしょう。しかし、海斗の言動は武本家の人間が口を出して良い範疇を明らかに越えております。彼ももう高校生になりましたし、そろそろ自分の立場をわきまえるよう厳しく注意しておきます」

「いや。その必要はない。武本家とは代々主従の関係が続いているとはいえ、俺は海斗を弟のように思っているし、海斗が俺を慕ってくれているのもよくわかっている。父上と武本がそうであるように、俺も海斗とは心の繋がりを大切にしたいのだ」

「ありがたきお言葉、痛み入ります。それでは、本日お持ちしました夏物の衣類とお父上からお預かりしました当面の生活費をお渡しいたしますので少々お待ちくださいませ」

「うむ。いつもありがとう」


 武本さんが車に取り戻ったボストンバッグを鷹能先輩に渡し、それと引き換えに鷹能先輩が手提げ袋を渡す。

 拗ねた海斗は結局車から出てくることのないまま、武本さんが私達に丁寧に一礼をして車に乗り込む。

 発進した車が角を曲がるまで見送っても、私の思考は停止したままで。


「海斗のせいで余計にややこしくなってしまった。とりあえずボーン部屋に戻って話をしよう」


 私を気遣うように穏やかに促す鷹能先輩の背中を見つめても、胸の内に立ち込める濃霧のような不安は濃くなるばかりで。


 先輩に向かって助走を始めていたキラキラした温かい感情は視界を遮られて立ち往生し、今にもうずくまりそうになっていた。

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