29 一進一退の恋心①

 全国吹奏楽コンクール高等学校の部。

 吹奏楽の甲子園と呼ばれる年に一度の大会は、地区大会、県大会、地方支部大会と勝ち上がりながら全国大会出場を目指す、多くの吹奏楽部が目標とする一大イベントだ。


 大編成の部に出場する団体は、毎年発表される課題曲の中から一曲、そして合計規定分数内に収まる自由曲を一曲演奏し、審査員の評価を受ける。

 我が藤華学園高校吹奏楽部は、今年度の課題曲Ⅲ『スケルトン・スケルツォ』と自由曲『風花の如く炎を散らせ』の二曲で勝負をするべく、文化祭ステージの曲と並行して以前から練習を始めていた。

 文化祭が終わった今週からは七月の東部地区大会突破に向けて、いよいよその二曲に練習を集中させていく。


 パーカッションのパートリーダーだった秋山先輩は外部の大学を受験するために文化祭で引退し、同じ三年生の霧生先輩は藤華大へ進学予定のためコンクールまで残ることになる。

 新しくパートリーダーとなった二年生のミオ先輩とマオ先輩、ナオ先輩、そして一年生のうっちーと私。明るく元気な秋山先輩がいないのは寂しいけれど、この六人でリズムを合わせて曲を盛り上げていこうと皆で気持ちを新たに一致団結した。


 吹奏楽オリジナル作品である『風花の如く炎を散らせ』はパーカッションの活躍が目立つ現代曲で、中でも終盤で盛り上がる前に打楽器群のみによって奏でられる迫力満点のソリ独奏がある。

 文化祭明け初日の今日は複雑なリズムが絡み合う八小節のソリ部分をパート練習したのだけれど、五連符、七連符、果ては十一連符といったリズムを刻むスネアドラムやボンゴ、シロフォン木琴に、シンバルの私やバスドラムのうっちーが上手く合わせられずに苦戦した。


 そんな初心者二人のために霧生先輩は懇切丁寧にアドバイスをしてくれて、おかげで練習の後半はスローテンポならばなんとか先輩達の音と噛み合うようになった。


「うん。タイミングはだいぶ掴めてきたみたいだな。明日はまたこのテンポから合わせていこう」

「はい! ありがとうございました!」

 ティンパニ越しの霧生先輩の優しい笑顔にほっとした私とうっちー。

 けれどもその直後、笑顔のままの霧生先輩がうっちーの肩をぽんと叩いた。


「じゃあ、残りの時間でうっちーにドラムを教えてやることにするか! 俺が引退するまでに、一通りの基礎をマスターさせてやりたいからさ」


 その言葉にうっちーの顔が途端に青ざめていく。

「あ、あのっ、とってもありがたいお言葉ですが、せっかくなんでもう少しバスドラの個人練習をしときたいなー、なんて……」

「遠慮するなよ! まずは俺がお手本を見せるから、うっちーはそのリズムを体に刻み込んで覚えるんだ」


 霧生先輩は狼狽えるうっちーの肩を押しながらドラムセットへと連れていく。

 この後うんりょー中に響くであろう “ドラムの鬼” の怒声を間近に聞くのは心臓に悪いので、私とマナミーズ先輩達はそそくさと一階のパーカス部屋へと避難した。


 🎶🎺🎶


「はぁー。今日はなんだかどっと疲れたなぁ」

 あゆむちゃんと三人での帰り道、うっちーが肩を落としながら大きなため息をついた。

「パー練をみっちりやった上に、霧生先輩のドラム指導だもんね。お疲れ様」

 私がそう返すと、顔を上げたうっちーが私をまじまじと見つめた。


「知華ちゃん……。なんか嫌なことでもあった?」

 その言葉と眼差しがまっすぐに私を刺す。

 動揺を悟られまいと顔に笑顔を貼りつけて「ううん、何もないよ」と答えると、いかにも人の好さそうな彼の丸い瞳が訝しげに細められた。


「今日は教室にいる時から沈んだ顔をしてたし、ため息ばっかり吐いてたじゃん」


 うっちーの意外に鋭い観察力に驚く私。

「だから何もないってば。『風花の如く』のシンバルが思った以上に難しくて大変だなって思ってるだけだよ」

「本当にそれだけ? 部活の間紫藤先輩が知華ちゃんをちらちら見ていたのに、知華ちゃんは敢えて視線を逸らしていたよね? 文化祭の後、俺らと一緒に帰らずにうんりょーに残った時、紫藤先輩となんかあったんじゃないの?」


 踏み込まれまいと張った笑顔の防衛線がいとも簡単に破られる。

 往生際悪く三度目の「何もないよ」を口にしようとしたとき、私の返答を待たずにうっちーが言葉を繋いだ。


「知華ちゃん。何があったかはわからないけど、困ったことや辛いことがあったんなら俺に寄りかかってよ。そりゃあ上級生に比べたら頼りなく見えるかもしれないけど、知華ちゃんのことは全力で受け止めて支えるつもりだから」

「…………」


 うっちーの言葉に、胸がぎゅっと苦しくなる。

 同じ言葉を、私も鷹能先輩に向かって言えたらどんなにいいだろう。

 先輩のことを諦めたくないと思っているのに、どうして信じて受け止めてあげられないんだろう。


「内山田君……。私を空気という名の踏み台にした上で発せられた今の言葉ですが、当の星山さんにはまったく届いていないようです……」

「ええっ!? そんなわけない……って、知華ちゃんっ! 俺の今の渾身の一言について何のリアクションもないのっ!?」


 あゆむちゃんとうっちーが楽し気に交わす会話もどこか遠くに聞こえて、私は鉛のように重くなっていく心を掬い上げる術もなく家路についたのだった。


 🎶🎺🎶


 鷹能先輩は宣言どおり翌日も藤北駅の改札で私を待っていた。

 目が合ってもつい俯いて逸らしてしまうのだけれど、先輩の方は気にする様子もなく「おはよう」と近づいてくる。

「……おはようございます」

 先輩は昨日と同じように私の後を追って改札をくぐり、ホームでは隣に立つ。


 しばらくして電車が到着し、乗り込んだ私が昨日と同じ位置で先輩に背中を向けようとした時だった。


「今日は俺ときちんと向き合ってほしい」


 両肩を掴まれ、くるりと向きを変えられて、私の背中は締め切ったドアにぴたりとつけられた。


「えっ、ちょ……」


 パーソナルスペースにまだいくらか余裕がある車内で、先輩が私との距離をぐっと詰める。

 私の肩を掴んでいた両手がドアに添えられて、私は腕の間に閉じ込められてしまった。


 目の前に先輩の胸が迫り、鼓動が聞こえてきそうなくらいだ。

 身動きが取れないまま恥ずかしさと戸惑いで顔を上げられずにいると、私の頭の中に先輩の低い声が直接響くように落ちてきた。


「昨日の知華の言葉で俺は決心がついた。君が引き返さないのなら、俺が君の腕を取る。君の不安も懐疑もすべて引き受けて、俺の側に引き寄せる」


 先輩の言葉が、息も出来なくなるくらい強く熱く私の心臓を掴む。


「そんな……。先輩……、これ以上私を苦しめないでくださ……」


 呻くように漏らすと、軽く体を折り曲げた先輩の口元が耳のすぐ傍まで降りてきた。


「苦しいのは引き返す道ももはや選べないからなのだろう? ならば苦しくても俺の傍に来い。必ず君を幸せにする」


 囁きよりも強く、命令よりも優しく。

 壁の手前でうずくまる私の心を立ち上がらせようと引っ張り上げる。


 目の前にある胸にいっそ飛び込んでしまいたい衝動がむくむくと湧き上がり、体が前に傾きかけて、胸の内になおも刺さるつかえに制止された。


 可憐な少女が先輩に捧げていた蕩けるような眼差しがフラッシュバックする。


「志桜里さん……。彼女のことはどうするんですか?」


 私の質問にほんの一瞬言葉を詰まらせた後、先輩は穏やかな口調でそれに答えた。


「父との約束がある以上、知華とのことを先に決めねば彼女の家に正式に話を持っていくわけにはいかない。だが、志桜里には先に連絡を取り、俺の意思をきちんと伝えて納得してもらおうと思う。この件についてはどうか俺を信じて任せてほしい」


 きっちりと磨かれた先輩の革靴に視点を固定させたまま、私は微かに頷いた。

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