17 うんりょーの朝①

 皆の視線を集めたトミー先輩のタクトが小さく動くと、先日のようにオーボエの一音がぴいんと糸を張るように発せられ、そこに様々な管楽器の音が重ねられていく。


 音程を合わせたチューニング後、指揮台に立つトミー先輩がドラムの霧生先輩にアイコンタクトを送ると、スティックを構えた霧生先輩がそれに応えて頷く。


 あれ? 霧生先輩の顔つきが、さっきまでの柔和な雰囲気と違うような──


 小さな違和感を感じた瞬間、スティックで拍を打つ霧生先輩の合図で曲が始まった。


 人気女子アイドルグループの昨年の大ヒット曲『夕焼けバンジー』。

 失恋ソングながらも明るく瑞々しいAメロはクラリネットとフルートによって主旋律が奏でられ、重低音の楽器が刻むリズムの歯切れ良さで自然と気持ちがのってくる。

 演奏を聞きながらだと一人で練習していた時よりもリズムが取りやすく、知っている曲だけに自分の演奏がどこで入るのかもわかりやすい。


 ほんのりと哀愁漂うBメロが終わると、トランペットが主旋律に加わり、サビが華やかに盛り上がる。

 ここからは、タンバリンも盛り上げ役として休まずに鳴らし続ける。


 手首のスナップをきかせながらモンキータンバリンを振り、八分音符の三つ目の音の時に左の掌底を打ちつける。

 始めは拍に気を取られ過ぎて振り方もぎこちなかったけれど、親しみやすいメロディがカラオケのノリを思い出させてくれて、後半は霧生先輩のアドバイスどおり楽しく叩くことができた。


 続く後奏は徐々にトーンダウン。夕焼けの余韻を残すように静かに曲が終わると、トミーが握った拳を静かに下ろし、皆の口から楽器が離れた。


 緊張が一気にほどかれた後に広がる、この充実した……


「くぉらてめぇらぁっ!! 本当にこれで練習してきたのかよっ!!」


 初めての合奏の充実感に浸ろうとした矢先、突然ドスの効いた怒号がうんりょーを軋ませるほどに鳴り響いた!


 ぎょっとして怒号の飛び出た方へ視線を向ける。

 鷹能先輩達金管パートが並ぶひな壇の後ろ、般若の形相で集団を睨みつけるのは、ドラムセットのスツールから立ち上がって肩を怒らせる霧生先輩だった。


「通しが終わるまで我慢してたが、十六分音符の粒どころかフレーズの頭だってまるで揃ってねえよ! せめてパー練で楽器ごとには合わせてこいや! 特にホルン! てめぇら音の当て方が音程もタイミングも悪いんだよ! 他の楽器とズレてるってこと自覚してんのか!?」


 指揮者のトミー先輩を差し置いての怒涛のダメ出しに、先輩達は苦笑いを滲ませつつも神妙な顔つきで肩を竦めている。

 名指しされたパートの人達は「すみませんっ!」と慌てて楽譜に指摘事項を書き込んでいる。


「霧生先輩って、一旦ドラムを演奏しちゃうと、人が変わったように厳しくなるの。“ドラムの鬼” って二つ名があるんだよ」

 隣でトライアングルを叩いていたミオ先輩が耳打ちして教えてくれた。


 怒号鳴り止まぬ中で後方のうっちーをちらりと見ると、案の定恐怖で青ざめている。

 これから予想されるドラムの鬼の猛特訓、何とか乗り越えて上手くなってね、うっちー。


 🎶🎺🎶


「はぁー。それにしても長かったなぁ。霧生先輩のダメ出し」


 部活が終わり、駅に向かう帰り道でうっちーがやれやれとため息をついた。


「チューバの先輩に聞いたところによると、霧生先輩は一度ああなると一時間は元に戻らないそうです」

 あゆむちゃんがおどおどしつつ補足する。


「マジかぁ。じゃあ今頃ようやく元の温和な先輩に戻る頃かなぁ」

「秋山先輩も呆れてたし、マナミーズ先輩達もそそくさと帰ってたもんね。うっちーはこれから霧生先輩とのドラムの特訓頑張ってよね!」

「知華ちゃん、それは言わないでよ……。あんな怒号を浴びながらの特訓なんて、俺ついていく自信がないよ」


 そんなことを話しながら駅の改札前まで来て、私はあることにふと気がついた。


「あ、さっきパーカス部屋で楽譜の小節に番号振ってて、ペンケースをそのまま置いてきちゃったかも」

「マジで? うんりょーまで取りに戻る?」

「うーん……、大丈夫! 明日の朝取りに行くことにするよ」


 ここからうんりょーまでは徒歩約五分。戻るのは億劫ではないけれど、一人で戻ったらきっと鷹能先輩が私を駅まで送ると言い張るだろう。

 さっきだって、クラスメイト風情うっちーと同じ方角なのは危険だから私を送ると言ってきかなかったのだけれど、あゆむちゃんと三人で帰るということでなんとか納得してもらったのだ。

 先輩に心配してもらえるのは嬉しいけれど、わざわざ送ってもらうのは申し訳ない。


 私はリュックのポケットに入れたIC定期券を取り出すと、それをかざして改札をくぐりホームへと向かった。


 🎶🎺🎶


 翌日の朝。


 いつもより一本早い電車で藤華学園前駅に到着する。

 グラウンド側にある北門から校庭に入り、プールの壁沿いを歩いて青雲寮が見えてくる角を曲がった。


 すると──


 朝の木漏れ日を纏いながら静かに佇むうんりょーの前で、ビュッ、ビュッ、と鋭く風を切りながら木刀で素振りをする鷹能先輩の姿が見えた。


 剣道着のような袴姿で、無駄のない美しい太刀筋で無心に木刀を振るっている。

 真っ直ぐに前を見据える瞳の力強さと、気迫を込めた呼気を吐き出す艶やかな口元、気品と威風を鮮烈に放つぴんとした姿勢に、思わず足を止めて見入ってしまった。


 朝日を浴びて神々しく輝くその姿は、まるでファンタジーの世界から抜け出た武神のよう。

 猛々しさと同時にこれほどの美しさを備えた人がいるなんて───


「知華……?」


 ぼうっと立ち尽くす私の姿を認めた先輩が、素振りの手を止めてこちらを眼差した。


「あっ……! お、おはようございますっ」

 我に返って慌てて挨拶をすると、近寄り難い気迫をたたえていた端正な顔に桜色の微笑みがのった。


「どうした。忘れ物か?」

「あ、はい。昨日パーカス部屋にペンケースを忘れちゃって」

「そうか。入口の鍵は開いている。取りに入るといい」

「はい。……あの、鷹能先輩は剣術を習ってるんですか?」


 先輩の木刀の構え方や刀捌きは、剣道とは少し異なっている。

 気になって尋ねると、木の枝にかけたタオルを手に取り汗を拭きながら鷹能先輩が頷いた。


「ああ。幼い頃から清巖せいがん流剣術の道場に通っていた。師範代の免許を持っている」


 剣術を体得している鷹能先輩だから、昨年の夏に私の剣道を見て心に留めてくれたんだ。

 そう思うと、なんだか照れ臭いような誇らしいようなこそばゆさを感じて顔が熱くなる。


「俺ももう切り上げる。中に入ろう」

「あ……、はい」


 木刀を片手にギイイと重いドアを開けて、鷹能先輩が私をうんりょーの中へ促す。


「ではまた、部活動の時に」

「はい。また後で」


 汗を拭きながら二階へと上がっていく鷹能先輩の背中を見送る。


 私の鼓動はまだ強く速く、ちりちりと焼けつくような心の熱を訴えるように刻み続けている。


 大理石のごとく硬質な美しさにのせられる桜色の微笑み。

 対峙する者を射竦めてもなお心を捉えて離さない冷徹な威圧感。

 卵の特売日に買いそびれると悔しがり、焼肉のタレを自作する男子高校生らしからぬ主婦力。

 暴力事件を起こした噂と、古い木造の部室に一人で住まう謎を抱えるミステリアスな深み。

 そして、先ほど知ったばかりの、美しい剣さばきで無心に木刀を振るう高潔で清廉な佇まい。


 その全てが鷹能先輩であって、でもそれは鷹能先輩の全てではなくて──


 紫藤鷹能という人を知れば知るほど、知っている部分にもっと触れたくなって、知らない部分にも触れてみたくなって。


 パーカス部屋でペンケースをリュックに入れ、代わりに携帯を取り出した。

 デイリーで設定しているアラームの時間を三十分早め、私は明日の朝もまたうんりょーここへ来ることを決めたのだった。

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