18 うんりょーの朝②

「あら、知華。今日は随分早く出かけるのねえ」

 制服に着替えて階段を下りる私の足音に気づいた母が、キッチンの入口からひょっこりと顔を出した。

「うん。せっかく始めた打楽器だから、今日から朝練してみようと思って」

 いつもより三十分も早く家を出る口実を早口で告げると、母はいつものようにおっとりと微笑んだ。

「そう。知華はやっぱり部活に打ち込んでいる方が向いてるわね。いってらっしゃい」

「いってきまーす」


 家を出ると、いつもよりほんの少し透明度の高い景色が広がっていた。

 早起きは三文の徳と言うけれど、陽射しで暖まる前のひんやりした空気が気持ちいいと思うのは、ドキドキと高鳴る胸をクールダウンさせてくれるからなのかもしれない。


 学生よりもサラリーマンやOLの姿が目立つ電車の中で、車窓を流れる景色をぼんやりと見ながら、私はひたすら鷹能先輩のことを考えていた。

 二人きりの青雲寮で何を話したらいいんだろうとか、ドキドキしすぎて上手く話せなかったら恥ずかしいかもとか、そんな不安も薄雲のように広がるけれど、そんなもので覆い隠すことなんかできないくらい、触れてきた鷹能先輩の姿はどれも鮮やかな煌めきを放っている。

 だから新たな煌めきを求めてうんりょーへ向かうローファーの足音は、自然とテンポを上げて軽やかに弾むのだ。


 プールの角を曲がったところで青雲寮が見えてくる。

 けれど、今日はその前で素振りをする先輩の姿は見られなかった。


 ちょっと早く来すぎちゃったのかな。

 うんりょーの中にいるのかも。


 アプローチの石段を上りながら重い木の扉に手をかけようと腕を伸ばしたとき、ギイイと音を立てて扉が開いた。


「ひゃっ……!」

 驚いて飛びのくと、扉の隙間から鷹能先輩の端正な顔が覗いた。

「ああ。知華か。おはよう。今日もまた忘れ物か?」

「お、おはようございます! えと、今日は、その……」


“朝練に来ました”

 そんな大義名分を用意していたはずなのに、心臓がバクバクと大袈裟なリアクションを取るものだから、焦って言葉が出てこない。


 狼狽える私に訝しむ様子もなく、鷹能先輩はさらに扉を大きく開けた。

 左手は扉のノブにかけたまま、右手にはランドリーバスケットを持っている。

 そして露になった出で立ちは、制服のワイシャツの上に猫のエプロンという例の主婦スタイルだ。


「先輩、その格好は……?」

「これか? 今ちょうど洗濯物を干しに行くところだったのだ」

「洗濯!? 先輩はうんりょーで洗濯もしてるんですか?」

「当たり前だろう。誰がやってくれるわけでもないからな。実はパーカス部屋の裏手に洗濯機が備え付けらえてあるのだ」

「そうなんですか!? 全然気がつかなかった」

「ならば一緒に見に行ってみるか?」

「あ、はい」


「パーカス部屋は屋外の手洗い場を壁で囲ったものだということは知っているだろう。そこに通っていた水道管に洗濯機をつなげて使っているのだ」

 青雲寮の正面から右に回り、パーカス部屋の脇を通って奥へと進むと、確かに壁際に洗濯機が据え付けられていて、物干し台に二本の竿がかかっている。

 先輩は洗濯機の蓋を開けると、ランドリーバスケットの中から角型ハンガーを取り出して物干し竿に引っ掛け、空になったバスケットに洗濯した衣類を移し始めた。


「あの、干すの手伝いましょうか」

「その申し出はありがたいが気持ちだけ受け取っておこう。この中には俺の下着類も入っているからな」

「え……っ!?」


 出しかけていた手を慌てて引っ込めると、先輩がははっと短く笑った。


「ここに知華を案内したのは、うんりょーのちょっとした秘密を見せたかったまでだ。すぐに終わるから先に中に入っているといい。せっかく来たのだから、コーヒーくらい淹れよう」


 手際よく洗濯物を干し始めた先輩。

 このままここにいると見てはいけない(というか刺激が強すぎる)先輩の下着まで見てしまいそうなので、「じゃ、中で待ってます」と慌ててその場を離れた。


 廊下の奥にあるボーン部屋に入ると、味噌汁と焼き魚の匂いがほのかに残っていた。

 シンク横の水切りカゴには、水滴のついたお茶碗とお皿が立てかけられている。

 鷹能先輩の日々の暮らしの営みが射し込む朝日に照らされて、私の目の前で明瞭すぎるほどに輪郭を現す。


 先輩は、毎日こうやってここで一人で朝を迎えて、一人で朝ご飯を用意して食べて、一人で洗濯をして、一人でそれを干して―───


“知華ちゃんなら、あいつの背負い込んでるものを軽くしてやることができるかも”


 先日のトミー先輩の言葉を思い出して、また胸がぐうっと塞がれるような息苦しさを覚えた。


 しばらくして足音が聞こえたかと思うと、開けたままにしていた入口から鷹能先輩が入ってきた。

「待たせたな。今コーヒーを淹れよう」

 そう言ってヤカンに水を入れて火にかけ、食器戸棚から二つのマグカップを取り出す鷹能先輩。

 その後ろ姿に、塞がる胸の内に溜まったものを投げかけてみる。


「先輩は高校に入ってからうんりょーで暮らし始めたんですよね? 入学する前はどうしていたんですか?」

「中学の時は、藤鈴川とうりんがわの河川敷にバラックを建てて暮らしていた。入学して間もなく行政から立ち退きを言い渡されたので、このうんりょーに住まわせてもらうことになったのだ」


 ななななんて衝撃的発言!!

 このギリシャ彫刻がホームレス生活!?


「中学生でホームレスやってたんですか!?」

「まあそういうことだな。同じ場所に住まう人達と助け合って暮らしていたし、それなりに楽しかったぞ」

「咲綾先輩は鷹能先輩の従姉なんですよね? 咲綾先輩のお家に頼ったりはできないんですか?」

「青雲寮を住まいとして使用させてもらっている時点で叔父上には随分世話になっている。咲綾達の家族は俺の事情をよくわかっているし、これ以上の援助を望むわけにはいかないのだ」

「そんな……」


 先輩がヤカンのお湯を円錐形のドリッパーにそっと注ぐと、ふわりとコーヒーの香りが立つ。

 ボーン部屋が優しく温かい空気に包まれるけれど、私に背を向けたままの鷹能先輩の佇まいはその優しさに溶け込むことなく、やっぱり無機質に強ばっている。


「一人で部室に住んでいて辛くはないんですか? 私に何かお手伝いできることはないんでしょうか」


 思いきってそう切り出すと、湯気の立つマグカップを二つ持った鷹能先輩が振り返った。

 私の前にそのうちの一つをコトリと置く。


「ありがとう。知華がそう言ってくれるのはとても嬉しいことだ。ただ──俺としては、その好意を簡単に受け取ってしまうことはできない」


 先輩は柔らかな眼差しをこちらに向けているけれど、その表情はどこか寂しげで、不安げで。


「どうして……?」


 ノックした途端に内側から鍵をかけられてしまった先輩の心の扉を前に戸惑っていると、朧げな笑みを浮かべた先輩が言葉を続けた。


「俺の事情に君を踏み込ませるには、覚悟が必要なのだ。君も。そして、この俺も」

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