39 合宿の夜②

「先輩……。コンクールが終わるまで、二人きりで会うのをやめてみてもいいですか?」


 地区大会翌日の朝、いつものようにボーン部屋でおにぎりを食べ、食後のコーヒーを飲みながらそう切り出すと、マグカップを口に運びかけていた鷹能先輩の手がぴたりと止まった。


「それは……どういうことだ?」

「誤解しないでください。先輩のことが嫌いになったとか、婚約をやめたいとか、そういうことじゃないんです。ただ、自分の気持ちをもう一度ちゃんと確認しておきたいというか……」

「…………」


 マグカップに口をつけないまま調理台にことりと置いた先輩がため息を吐く。


「やはり俺のアモーレが足りていないということか……」

「え……っ?」

「コンクール直前に知華の心を乱してはいけないと自分の心を抑えていたが、それがかえって君を不安にさせたのだな」

「え、いえ、そうじゃなくって」


 がたん、とパイプ椅子から立ち上がると、先輩は調理台の角を回って私の隣に立った。

 心臓が早鐘と化した私の肩に手を掛けて、その端正な顔を近づけてくる。

 顎にそっと指を添えられ、優しく上を向かされる。


「知華……」


 低く甘い声で囁かれ、一瞬意識が飛びそうになったけれど、我に返って先輩の胸を押し戻した。


「知華……?」

「違う……」

「……え?」

「違うんです! これじゃあまた先輩に引っ張り上げられることになっちゃう」


 私の意図を汲みかねて呆然とする鷹能先輩の前で、慌てておにぎりのホイルを片付ける。


「ごめんなさい。明日からちょっとおにぎりお休みします。コーヒーごちそうさまでした」


 立ち上がり、コーヒーを底に残したままのマグカップをシンクに運んで洗い始めると、先輩が深く息を吐きながら横に立った。


「知華に思うところがあるのなら仕方がない。君自身の心の整理がついて俺にきちんと向き合ってくれるまで待つしかないのだな」

「すみません……」

「謝ることはない。俺は俺にできることをしておく。実は明後日の夜、志桜里と海斗の三人で会うことになった。彼等とはそこできちんと話をつけたいと思っている」

「明後日って、合宿の日ですよね?」

「そうだ。夕食時に一時抜けることになるから、バーベキュー奉行はトミーと霧生に任せることにした」

「そうですか……。志桜里さん達が納得してくれるといいですね」

「難しいだろうが、言葉と誠意を尽くして俺の思いを伝えるつもりだ。話し合いの結果はうんりょーに戻ってから君にきちんと伝えたいと思う」

「はい。待ってます」


 水を切った味噌汁椀を、布巾を手にした先輩に渡す。

 少し翳りを帯びた先輩の微笑みに胸がちくんとしたけれど、できる限りいつもどおりに微笑みを返した。


 🎶🎺🎶


「へえー……。うっちー、とうとう告ったんだあ」

「とうとうって……。じゃあ茉希はうっちーの気持ちを前から知ってたの!?」

「入学してすぐからあからさまだったもん。むしろ今まで気づかなかった知華の方がひどすぎるよ」

「う……。それは確かに申し訳なかったと思ってる」

「まあ、知華の心は初めから先輩に向いちゃってたから仕方がないけどね。それにしても、やっぱり紫藤先輩ってヤバい人だったんだ。まさかそんな御曹司に知華が結婚を迫られてたなんてねー」

「ずっと黙っててごめん……」


 終業式の日。午後からの部活の前に、高校の傍にあるファミレスに茉希をランチに誘った。

 自分一人の胸の内に抱え込みきれなくなったものを洗いざらい打ち明けると、親友は意外なほどあっけらかんとした反応を示した。


「結局先輩にはうっちーと海斗が接触していたことを伝えそびれちゃったんだけど、それって伝えといた方がよかったのかなあ?」

「いや、それは伝えなくて正解だったんじゃない? うっちーに告られたなんて先輩が知ったら、それで知華の気持ちが揺れちゃったんだって誤解するかもしれないし」

「うっちーには悪いけど、彼の気持ちを知ったからって揺れたりなんかしないよ。ただ、先輩のお父さんが言うとおり、私にはまだ愛が足りてない気がするんだ」

「そう言えば、確か懐メロの歌詞にもあったよね。会えない時間が愛を育てるってさ。十月の先輩の誕生日まではまだ時間もあるし、知華なりのやり方で気持ちを持っていけばいいんじゃないの?」

「茉希、ありがとうっ! さすがは愛の伝道師!!」

「だから変な肩書きつけるのやめてってば!」


 手にしたフォークにくるくるとパスタを巻きつけながら茉希が笑う。

 サバサバしたいつも通りの様子に勇気づけられる。

 先輩に引っ張ってもらわなくても、自分から隣を歩けるようになりたい。

 その思いを新たにしつつ、茉希とのランチを終えた私は部活へと向かったのだった。


 🎶🎺🎶


 高校生活初めての夏休みは、県大会に向けての合宿で幕を開けた。

 けたたましい蝉の鳴き声と幾重もの楽器の音を纏ったうんりょーは、コントラストの強い木漏れ日を板壁に映しつつ涼やかに佇んでいる。

 今朝おにぎりをお休みした私は、合宿の集合時間ぎりぎりにうんりょーへ滑り込んだ。


 午前中はパート部屋での基礎練習や個人練習がメイン。お昼を挟んで、午後はパート練習と分奏をトミー先輩が巡回して指導に回る。

 金管楽器と一緒に分奏に参加したパーカッションにも、トミー先輩の熱っぽい指示が入った。


「今のとこなんだけど、うっちーのバスドラはチューバと同じリズムになってるんだよ。だからもっとチューバの音に寄り添って、腹に響く一つの音のように鳴らしてほしいんだけど……霧生、どうすればいいと思う?」

「そうだなあ。うっちー、叩いた瞬間に手首にスナップを利かせすぎずに、ヘッドを若干押さえる感じで叩いてみ?」

「こ、こうっすか?」

「んー。そんな感じかな! じゃ、ちょっとチューバとバスドラでこのFパートのとこ合わせてみよっ」

「「はいっ」」


 地区大会での演奏よりもさらに完成度を高めるための細かな調整が入れられていく。

 たった数分ずつの二曲の中で、これだけのこだわりを詰め込めるトミー先輩の繊細な感性を改めて尊敬する。


 バスドラとチューバが音を合わせている間、同じく分奏に参加している鷹能先輩と目が合った。けれど、先輩は控えめな笑みを見せるだけで特別な感情をそこにのせることはしない。

 あの甘やかさに浸かっていた身としては物足りなくて胸がきゅうって鳴るけれど、今はこれでいいんだ。


「知華ちゃん。今のサスペンドシンバルサスシンのロールはクレッシェンドをもっと派手にね! 炎が舞い散る様子を表現してるわけだから、情熱的に盛り上げていこっ」

「はいっ」


 先輩の成分が足りなくなって、もっと息苦しくなればいい。

 そうすれば私の心ももっと情熱的に盛り上がるはずだから────


 🎶🎺🎶


 夕食のバーベキューはOBの先輩方が差し入れを持ち込んで加わり、うんりょーの横の空き地で盛大に行われた。

 咲綾先輩のお父さんでこの吹部のOBでもある理事長からも、地方大会一位のお祝いと県大会への激励として霜降り和牛が大量に差し入れられ、部員達の士気はダダ上がりになった。


「野郎どもーっ! 肉ばっかり食うなよっ! 野菜を焼けえっ!」

「葉山と角田はまず米を食えっ! 腹を膨らませてから肉にいけっ!!」


 久しぶりにうんりょーへ顔を出した秋山先輩が数枚の鉄板に手際よく野菜を並べて回り、トミー先輩と霧生先輩が声を張り上げて仕切っている。

 夏の夜空に賑やかな笑い声が広がる中、暗闇でも目を引くはずの鷹能先輩の端麗な姿はなく、鉄板の下の熾火おきびに炙られるようにちりちりと胸が痛くなる。


 今ごろ先輩は志桜里さんや海斗とどんな話をしているんだろう。

 解決に向けた話し合いはできているんだろうか。

 あの可憐な志桜里さんが真っ直ぐにぶつけてくる思いの強さに、先輩の心が揺らぐことはないんだろうか。


 たった二日先輩と話をしていないだけなのに、私に向けられていた桜色の感情が霞みがかって見えにくくなっている気がする。


 自分から距離を置きたいと言ったのに、先輩に早く戻って安心させてほしいと思うなんて、私はどれだけわがままなんだろう……。


 身勝手な胸の疼きを焼き去ってしまいたくて、私はちりちりと赤く染まる熾火を目が痛くなるほど見つめ続けた。


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