32 駆け出す恋心①
「……どうした? 何かあったのか?」
翌朝、いつもより一時間も早く家を出たのに鷹能先輩はちゃんと改札で待っていて、私を見つけた途端挨拶よりも先に詰め寄ってきた。
その野生動物並みの勘にたじろぎながらも、私は努めていつもどおりの笑顔をつくった。
「おはようございます。先輩こそいきなりどうしたんです? 何もないですよ?」
昨日海斗と志桜里さんに会ったことは、鷹能先輩には内緒にしておこうと思った。
海斗に関しては告げ口してやりたい気もするけれど、先輩に問い詰められたりしたら、志桜里さんはさらに苦しんでしまうだろうから。
そそくさと改札をくぐり、ホームへと下りる。
隣に立った先輩が、私の顔を覗き込みながら「やはり何かあったのだろう?」と尋ねてきた。
私は笑顔で「久しぶりに早起きしてちょっと眠いだけです」と言い張る。
ホームに滑り込んできた電車に乗り、二人の定位置で向かい合わせになったのだけれど、私を見下ろす鷹能先輩は形の良い眉を歪めていつになく不機嫌そうだった。
「知華……。まだ俺のことが信じられないか?」
「……え?」
電車が動き出すとしばらくして、先輩がそう尋ねてきた。
見上げるとその表情は不機嫌というよりも悲しげで、途端に私の心が惑い始める。
「約束したろう。君の苦しみも懐疑もすべて俺が引き受けると。どうして一人で抱え込もうとするのだ」
「……もしかして、先輩は昨日のことをすでに知っているんですか?」
その口ぶりに思わず尋ね返すと、歪んだ眉の下の切れ長の目が眇られ、ずいっと顔が近づけられた。
ドアを背にした私は至近距離に迫る端正な顔から逃げる術もなく、心臓がばくばくと喘ぎ始める。
「……やはり昨日、何かあったのだな」
「あ、ヤバ……っ」
「何があった? 海斗が何かしでかしたか?」
「……どうしてわかるんですか?」
「先日志桜里と話をしてきたからな。そろそろあいつがしゃしゃり出て来るのではないかと予想はしていたのだ」
「そ、そうだったんですね……」
観念した私は、結局昨日の出来事をぽつりぽつりと報告した。
志桜里さんが泣いてしまった後で海斗に言われたことを伝えると、ずっと黙って聞いていた先輩が真っ直ぐに私を見据えたまま話を遮った。
「……で? 知華はそこで引いたのか?」
「えっ?」
「志桜里の泣く姿と君を責める海斗の言葉に、胸を痛めて身を引いたのか?」
「……」
曖昧さを許さない、決意を問う瞳。
私はその濃い琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、首を横に振った。
「引いてません。先輩が、苦しくても傍に来いって言ってくれたから。……だから、私も引きません」
先輩の引き結ばれた唇が綻ぶ。
瞳を細めてその表情に桜色をのせると、大きな手を私の頭にぽんと置いてそっと撫でた。
「よく頑張ったな。それでいい」
ほわっとしたこそばゆさが胸に広がる。
けれど、それはすぐに鈍い痛みに塗り替えられていく。
志桜里さんはきっと、こんな風に優しい鷹能先輩の記憶をずっと心の拠り所にしてきたんだ。
この笑顔がもう二度と自分に向けられることがないとしたら、私だってどれだけ悲しみにくれることだろう。
「でも先輩……。志桜里さんの気持ちはどうなるんでしょう。私には彼女の気持ちもよくわかるんです。このまま一方的に会わないことにするのも不誠実だと思うんですけど」
そこまで言ったときに、電車が藤華学園前駅に到着した。
一旦中断した話は、駅を出てうんりょーへ向かう道すがら、先輩が切り出すことで再開した。
「先程知華は俺が一方的に会わないことにしていると言ったが、俺の立場からすれば志桜里の方が一方的に自分の気持ちを俺に押し付けているとも言える。そう言い切って話し合いを放棄するのは簡単だが、確かにそれでは不誠実だと言われても仕方ない。彼女に少しでも俺の思いを理解してもらえるよう努力は続けることにする」
「そうですか……」
私の意見を汲んでくれた、納得のいく返答。
それを聞いて鈍い痛みが軽くなるかと思いきや、今度はもやもやと息苦しさが広がっていく。
「でもそれって、先輩がこれからも志桜里さんと会うってことですよね? ……何度も会ううちに、やっぱり志桜里さんの方がいいってことになりませんか?」
私ってば、なんて身勝手なこと言ってるんだろう。
喉元までこみ上げてきた不安を言葉にして吐き出してしまい、並んで歩く先輩の横顔を恐る恐る見上げた。
「……先輩?」
鷹能先輩は右手を額にあて、苦悶を顔に浮かべている。
やっぱり幻滅されてしまったのだろうか。
「…………まずいな」
先輩の呟いたその一言に、さあっと血の気が引いた。
そんな私の手を取り、先輩は歩く速度を早めてずんずんとうんりょーに向かっていく。
先輩の手が熱く感じるのは、私の指先が緊張で冷えたからかもしれない。
ギイイと重い扉を開けて中に入った途端、先輩が手を離して私へと向き直った。
「知華……」
「は、はい」
「抱きしめていいか?」
「……は、はいぃっ!?」
待ちきれなかったとでも言うように、私の返事を待たずに先輩の腕が背中に回され引き寄せられる。
片方の手が私の頭を覆い、胸にぎゅっと押し付けられる。
上半身のほとんどが鷹能先輩と密着している。
ここここここの状況って一体───!!?
「真っ直ぐに向かってくる素直さ。引かない強さ。その一方で垣間見せる脆さ。昨年の夏、剣道を通して俺が見た君の姿そのままだ」
先輩の低い声が硬い胸板を通して私に直接響いてくる。
「そんな君の素直さや強さ、そして脆さが今はすべて俺に向けられているのが、たまらなく嬉しい」
抱きしめられているという実感とともに、心拍数がものすごい加速度で上がっていく。
「こんなに知華が愛おしいのだ。俺の心変わりを気に病む必要がどこにあろうか。俺を信じて、君はまっすぐ前を向いていればそれでいい」
「先輩……」
体じゅうが鼓動と熱に支配されて、言葉が上手く出てこない。
こくりと頷いたけれど、先輩が腕を緩める気配もなく、私はしばらくの間胸の中に囚われ続けていた。
「まずいな……」
道すがら聞いた言葉を再び零すと、先輩がゆるゆると腕を解いた。
「まずいって、何がですか……?」
その言葉に戸惑いつつ、ようやく息を深く吐いた私が尋ねる。
「俺はやはり、あの両親の血を引いているらしい」
苦笑いを浮かべながらそれだけ言うと、先輩は靴を脱ぎ出した。
「せっかく久しぶりに知華がおにぎりを握ってきてくれたのだ。お茶と味噌汁を用意するとしよう」
先輩の言っていることの意味がさっぱりわからない。
私が何かまずいことをやらかしたということではなさそうだけれど、ご両親の血を引いている、つまりご両親と似ているところがあるとまずいということなのだろうか?
頭の周りにはてなマークが飛び交うけれど、「味噌汁はかき玉にするか、豆腐とわかめにするか……」と、すでに主婦モードに突入している鷹能先輩は私に背を向け、パタパタとスリッパを鳴らしながらボーン部屋へと向かっていく。
ものすごく良い家柄でものすごくお金持ちのお家の長男ということはわかったけれど、先輩の背景にはまだまだ多くの謎がある。
けれども、この先どんなに高い壁が待ち受けていたって、先輩と一緒ならきっと諦めずに向かっていける。
私の苦しみや不安を鷹能先輩が引き受けてくれるなら、私も先輩の背負うものを少しでも軽くしてあげられたらと思う。
それを可能にする形が結婚であるならば────
そこまで考えた途端、頭の中に紋付袴姿のギリシャ彫刻が微笑む姿が映像化された。
このままじゃ、ゆでダコ状態でボーン部屋に登場することになり、鷹能先輩を不思議がらせてしまうだろう。
その理由を説明できるわけがなく、私はこれ以上の妄想が広がらないように頭をぶんぶんと振り、熱くなった頬を片手で必死で仰ぎながらスリッパを履いた。
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