03 うんりょーが君を待っている③

 目の前に突如現れた古い木造の洋館。

 鶯色の板壁はところどころ塗装が剥げていて、臙脂えんじ色の屋根の石板スレートは遡上したサケの鱗のようにぼろぼろと抜け落ちている。

 今時珍しい古い木枠の窓には薄氷のような摺りガラスがはめ込まれていて、ところどころガムテープで補修が施されている。

 高校の敷地内だというのに、プールの壁や周囲の木々に遮られたここはまさに異空間。そんな場所にぽつんと建っているボロ洋館なんて、夜には決して近づきたくない。

 運動部の合宿なんかで絶対肝試しに使われてるよ、ここ。


 そんないわくありげで怪しさ満載の建物なのに、ギリシャ彫刻の人に「君を待っている」と言われると、この建物から特別な包容力が感じられるから不思議だ。


「これが、うんりょー……」

「俺たち吹奏楽部の部室だ。正式名称は “青雲寮”という」


 そう言った彼の手が私からそっと離れた途端、ひんやりとした空気が私の手のひらを撫でた。

 彼は角が欠け落ちた石段のアプローチを三段上り、ガラスの嵌った大きな扉の取っ手を手前に引く。

 ギイイと軋む音。それを追い越すように一層賑やかな楽器の音が耳に飛び込んでくる。

「入って」

 促されるまま、私はおずおずと薄暗い中へと足を踏み入れた。


「あっ、タカ! 新入生連れてきたの!?」

 ギイイと扉が閉まると同時に現れた人影。薄暗さに慣れてきた目を凝らして見ると、廊下を歩いてきたのはアッセンブリィの壇上にいた百合の大輪のオーラを持つ先輩だった。

 艶やかなストレートの黒髪がかかる胸に抱くのは一冊のファイルと銀色のフルート。

 まるで肖像画のような美しすぎる容姿に思わず見とれてしまう。


「初めまして! 吹奏楽部へようこそ」

 桜色の唇が優雅な弧を描き、魔性を秘めた黒水晶のような瞳が半月に細められる。

「ふぇっ、あの、私入部希望じゃ……」

 ドキドキして変な声が出たし! しかも声上ずったし!

 動揺して言葉を詰まらせた私を見て鈴が転がるような笑みを零す先輩。

 気品溢れるオーラに、笑われたことすら心地よく感じてしまうイリュージョン。

「私は吹奏楽部部長の紫藤しどう咲綾さあやと申します。勧誘初日に見学に来てくれただけでも嬉しいわ。とにかく靴を脱いで上がって?」


「え、紫藤って……」

 確か剣道部の先輩もギリシャ彫刻の人をそう呼んでいた気がするけれど……。

 靴を脱いでいるギリシャ彫刻をちらりと見ると、切れ長の彼の瞳がこちらを向いた。

「そう言えばまだ名乗っていなかったな。俺の名は紫藤しどう鷹能たかよし。部長の咲綾とは同い年の従姉弟だ」


 紫藤鷹能──

 見た目と違って随分和風な名前だ。いや、ジョンとかボブとか名乗られてもしっくりこないし、醸し出す高潔な雰囲気は名は体を表してると言えるのかもしれないけど。

 変に感心していると、咲綾先輩から「あなたのお名前は?」と尋ねられた。


「あっ、私は1-Cの星山知華ちはなといいます」

 ぺこりとお辞儀をしてから鷹能先輩に倣って靴を脱ぎ、下足棚の空いてる場所にローファーを入れていると、咲綾先輩が鷹能先輩に耳打ちする声が聞こえてきた。

「それにしても、タカが新入生を連れてくるなんてびっくりね。もしかしてこの子が……?」

「そう。彼女だ。運良くすぐに見つけることができた」


“見つけた――”

 桜吹雪の舞う中、確かに先ほども彼はそう言っていた。


 こんなに端正な容貌の人物、もし過去に会ったことがあるならば忘れるはずがない。


「先輩はもともと私を探していたんですか?」

 端正で無機質な横顔に問いかけてみたけれど彼はそれに答えず、思い出したように腕時計を見やった。


 ちょっと待って! 私の問いは完全スルー!?


「しまった。こんな時間だ。咲綾、悪いが彼女を頼む」

「あら、私が案内しちゃっていいの? ……って、そっか。今日は木曜日だったわね」

「今から行けば合奏練習の前には戻れると思う」


 そう言った鷹能先輩が、私に視線を向けた。

「うんりょーは部長が案内してくれる。ではまた」


 彫像のような顔に、再び僅かな色がのる。

 けれども柔らかな眼差しを見せたのはほんの一瞬で、先輩はそのまま靴を履き直し、ギイイと扉を開けてどこかへ行ってしまった。


 その背中を見て、なんだか突然見知らぬ街に放り出されたような心細さを感じた。

 今さらながら、噂の “魔窟” に来てしまったことに戸惑い始める。

 私がここにいるのは、美しすぎるギリシャ彫刻に手を引かれたからなんだ。

 完璧な調和をもつ彼が、私が助けを求めた完璧なタイミングで現れたその時に、きっと魔法をかけられたんだ。


「知華ちゃん、こちらへいらっしゃい」

 咲綾先輩に手招きされる。

 ここまで来てやっぱり帰りますというのも言いにくいし、“ではまた” というからには、後でもう一度鷹能先輩に会えるんだよね?


 それにこのまま帰ってしまったら、あの桜のようにほんのりと温かい色をのせた、春の幻のような眼差しはもう二度と見られないような気がする。


「よろしくお願いします」

 私は框を上り、“魔窟” と呼ばれるうんりょーの奥へと足を踏み入れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る