07 あの横顔をもう一度見たい①

 今日も来てしまった。青雲寮へ。


 高校の敷地の外れで時の流れに置いていかれたかのように建つ古い洋館。

 けれども活気ある音たちを纏う穏やかなその姿は、今この時をこの建物の中で過ごす若者達を慈しんでいるかのようで、やっぱり包容力に溢れている。


 入口まで来ると、ショートカットの小さな女の子が重たい木製の扉の前でガラス越しに中を覗こうとしていた。

 小学生に見えるくらい小柄だけれど、制服を着ているところを見ると私と同じ新入生なのだろう。


「見学の新入生か?」

 彼女の背後から、馬上の武士が誰何すいかするかのように厳然とした声で鷹能先輩が尋ねると、びくりと跳ねた彼女が振り向いた。

 メガネの奥のつぶらな瞳が鷹能先輩の姿を捉えて見開かれる。

「あわ……っ、すっ……すみま……」

 震えたか細い声が最後まで言い切らないうちに消え入ったかと思うと、彼女は脱兎のごとく私達の横をすり抜け走り去った。

 小動物系の臆病そうな子だっただけに、声をかけられた相手が悪かったとしか言いようがない。


「ああいう反応はもう慣れっこだ」

 平然と呟いた先輩がゆるりと解いた手で青雲寮の扉をギイイと開けた。

「今日は二階を案内しよう」

 沢山の音符で満たされた空間へ足を踏み入れ、先輩についてミシミシとスリリングな音を鳴らす古い階段を上る。


 上がりきったところは、仕切り壁のない広い空間になっていた。

「二階ホールは金管パートの練習場でもあり、合奏練習やミーティングで部員が集まる場所でもある。今日はぜひ合奏練習を君に見学してもらいたい」

 先輩はそう言いながら、自分のバッグを棚に置き、代わりに黒くて四角いケースを取り出した。


 リュックを下ろしながら見回すと、すでに来ている部員達が大小金銀さまざな形や色の楽器を口にあてて練習を始めている。

 空間の一角にはティンパニや木琴、鉄琴、ドラムセットなど大きな打楽器が並んでいて、その種類の多さに目を奪われた。

 ラテン系の音楽で使いそうな太鼓とか、いかにもチャイナなドラとか、お寺の木魚の小さいバージョンが一列に連なったものとか、一体どんな曲でどういう風に使うんだろう?


 興味をそそられて見入っていると、


 ぷー

 ぷぷぷぷー


 突然ヘリウムガスを含んだおならのような音が聞こえてきた!


 何事かと振り向くと、鷹能先輩が小さくて丸い金属を口に当て、一文字に引き結んだ唇から音を出している。

 目が合うと、その金属を口から離し、私に見せてくれた。


「これはマウスピースといって金管楽器についているものだ。息を吹き出した唇の振動をマウスピースを通じて楽器に伝えることで音が出る。練習の始めにはまずこれでウォーミングアップをする」

「へえぇ……」

 差し出されたものを手に取ってみると大きさの割に意外と重い。

 そして、トイレの水詰まりで使うカッポンってやつに形がちょっと似ている。


 ……なんて俗物すぎる感想を高潔なギリシャ彫刻の前で口にできるわけないなぁ、などと思っていると、鷹能先輩はケースからもう一つマウスピースを取り出して私に差し出した。

「試してみるか?」

 ちょっと面白そうなので、先輩が使っていた方を返し、代わりにそちらを受け取って口に当てる。

「唇を軽く閉じ合わせて、そこから息を漏らして唇を震わせる要領だ」

 先輩のアドバイスに沿って口から息を出……


 出……


 出ないっ!


 口を結んで、なおかつマウスピースで唇を押さえた状態で息を漏らすなんてできないっ!


 ふしゅぅ~……


 結局唇が緩んで、口の端から変な息が漏れた。何回かチャレンジするも、上手く唇を震わすことができずに息が漏れてしまう。


「思ったより難しいんですね!」

 マウスピースを口から離しながら先輩を見て──


 こちらへ向けている眼差しに、心臓が暴発するくらいドキリとした。


 琥珀に近い茶色の瞳は切れ長の形が細められ、熱を閉じ込めたように揺らめいている。

 薄い唇が美しい弧を描き、桜よりもさらに濃く明るい色をのせたその表情。

 あまりの甘やかな美しさに心臓が破裂しそうなのに、目を逸らすという緊急避難行動が取れない。


「やはり、いいな」


 低く囁くように漏れ出た言葉が、致命的な打撃を与えた!!


「いっ……いいいいいいいいって……!?」


 本当に心臓が弾けたんじゃないかと思うくらいに血が全身を駆け巡り、一気に顔に集まってくる。

 そんな私を絡めとる眼差しに長い睫毛が被せられ、先輩はははっと愉快そうな声を出した。


 初めて笑ってるところを見た──!


「知華の横顔だ」

 笑みの余韻を残す口元のまま、先輩は言葉を紡ぐ。

「俺は君のそんな横顔をもう一度見たかったのだ。うんりょーならば、それを叶えてくれると思っていた」


「先輩はいつから私のことを知ってるんですか……?」

 動機が治まらないまま、昨日浮かび上がった疑問の一つをぶつけてみる。

「君を見たのは昨年の夏。中体連の東部地区大会だ」

「あの大会……ですか」


 中学ではそこそこ強豪の剣道部に所属していた私。

 藤北とうほく市大会では女子団体、個人戦共に優勝し、県大会への出場を賭けて臨んだ東部地区大会で、先輩は私を見かけたということらしい。


 でも、あの大会で私は──


 心臓は相変わらず早鐘のように打ち続けるけれど、背筋は冷ややかに固くなる。


「俺は幼馴染の応援でその大会を訪れたのだが、女子の団体戦で藤北第二中学の大将を務めていた君に目を止めた。真っ直ぐで美しい剣道をする姿が好ましかった。団体戦の結果は惜しくも準決勝敗退となったが、個人戦ではきっと優勝するのではないかと、垂れに刺繍された君の名前を心に刻んだ」

「そうだったんですか……。じゃあ、私の個人戦も見ていたんですか?」


 あの日の個人戦四回戦──

 私がこつこつと積み上げてきた時間が、努力が。

 あの試合で、あまりにも呆気なく崩れ落ちた。


「ああ、見ていた。美しい竹刀さばきにも感心していたが、何より試合の前後、面を外している時の横顔に心魅かれた。真剣勝負に真っ向から挑む心が表れた、凛とした美しさがあった。ただ──」

 言葉が切られて生まれた沈黙に射すくめられる。

「四回戦。試合中に竹刀を落とした後、動揺した君は直後に面を取られただろう。結局立て直すことができずに負けた時、君の脆さを知った。試合後の面を外した横顔を見て俺は感じ取った。君の底知れぬ無念さと後悔を」


 全部、見られていたんだ──


「恥ずかしいです……。そんなところまで先輩に見られていたなんて。しかも、私の後悔まで見透かされていたなんて」


 先輩が私を見てくれていたという嬉しさや照れよりも、あの試合、そしてその後の表情まで見られていたことに、地球の核まで掘り進んで溶けてしまいたいくらいの恥ずかしさを感じる。

 悔し泣きでなかなか面を外すことができなかったのに、体育館の隅で泣きながら立ち尽くすその姿も先輩はずっと見ていたのだろう。


「竹刀を落とした後の君の脆さを考えると、君はもう剣道を続けることはないかもしれないと思った。けれども、俺としては目の前のことに真っ直ぐに向き合う君の横顔を再び見たいと願った。伝手を頼りに君がこの高校に入学してくることを知り、俺は不思議な縁を感じたのだ」


「縁……?」


 羞恥のあまり涙で滲む視界で恐る恐る先輩をとらえると、彼は柔らかな笑みをたたえたまま、私を穏やかに見つめていた。


「そう。縁だ。俺は君のあの凛とした眼差しを取り戻したい。──この、うんりょーで」

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